2019.07.21
# ライフ

「死ぬとはどういうことですか?」田原総一朗が南直哉さんに尋ねた

宗教者との対談①南直哉
田原 総一朗 プロフィール

「諸行無常」を見た瞬間に

――そんな悩みを抱えながら、高校、そして大学にも進学したわけですか。
「実は、中学3年の時に決定的な出来事があったのです。4月の初めに教科書が配られて、めくっていたら、古典の章に『平家物語』が載っていました。最初の一節に「祇園精舎の鐘の声」が出ていて、そのあとに「諸行無常」と書いてありました。それを見た瞬間に、ああ、これが自分が抱いていることだ、とね」

――なるほど、「諸行無常」ね。
「ほんとに、あのとき、地平線というのですかね。闇の中に、サーっと光が入って、地平線が見えた感じだった。これこそ自分がいいたいことだ。この言葉があるということは、自分が考えることは異常なことではないんだ。人と一緒に考えられることなんだな、と。人間、救済とか救いとか言いますが、その最初は『孤独じゃない』ということがわかることなのです。それがわかったのですよ」

 

――「諸行無常」という言葉で、自分が、異常というか、特殊な人間ではないのだとわかったわけですね。
「本当に、救われたという思いでした。助かった、と。そこで、家に飛んで帰って、百科事典を調べたら、仏教の言葉だとわかりました。だけど、仏教とはまったく縁がないので、どうしてよいかわからなかった。そしたら、高校に入って、僕のおばあさんが聖書を読んでいるのを見たのです。おばあさんは一人暮らしをしてたのですが、正月でたまたまうちに来ていたのですね。

そこで、おばあさんに、『おもしろい?』と聞くと、『おもしろいから読む本ではないけれど、おばあちゃんは好きよ』と言うので、ご機嫌取りと宗教に対する興味とで、『一度教会に連れて行ってよ』と言ったら、本当に教会に行くことになったのです。おばあさんは教会から、誰かを連れてくるように求められていたようですね」

――それで、教会はどうでしたか。何か掴めましたか。
「日曜日に教会に行ったら、説教台からかろうじて頭が出ているような小柄な牧師だったのですが、ものすごい情熱的な説教していたのです。ほんとうにすさまじい迫力でして、強烈な印象を受けました。『諸行無常』を見たときのような衝撃で、もしかしたら『イケル』かもしれないと思ったのです」

――牧師さんの説教に感動したのですか。
「いや、感動ではなくて……。『諸行無常』とは別の何か、その何かがある、と感じたのです。誠実な人物で、この人物ならば信用できそうで、何か掴めるかもしれないと思い、1年近く通いました」

――えっ、そんなに続いたのですか。
「高校生の拙い質問にも懸命に答えてくれる人で、私は生まれて初めて『宗教家を見た』という気がしました。ある日、実は腹の中で、今日決着がついたら、洗礼を受けようと思って、それで牧師さんに、『日曜学校が終わった後に、ちょっと時間を取ってくださいませんか』、と頼んだのですよ」

――牧師さんに、どんなことを話そうと思ったのですか。
「要は、牧師さんに、『なぜキリスト教を信じられるのですか』と確かめたかったのですよ。牧師さんは、その点について、3時間以上、延々と答えてくれたのですが、僕にはどうしても納得できないのです。こっちも必死ですからね」

――牧師さんは、なぜ信じられると言ったのですか。
「それが、いろいろと説明してくれるんだけど、僕にはよくわからない。そして、核心のところまでいくと、『ここから先は理屈ではない』というような言い方をするんですよ。だけど、僕は理屈でわからなければ、どうしようもないわけです。

そして、疲れ切ってしまったので、『先生、実は今日、僕は洗礼を受けようと思って来たのです』と言ったら、牧師さんが喜んでくれるだろうと思ったのですが、深いため息をついて、『南くん、キリスト教はね、人を信じるのではなく、神様を信じるんだよ』と言ったのですよ。瞬間、この人は偉いなあと改めて思いましたね。同時に、だったら自分はダメだと思いました。

僕が一番無理だと感じざるを得なかったのは、『原罪』という考え方に対してです」

――キリスト教の原罪ね。アダムとイブの物語ですね。
「原罪があるから、人間は苦しい思いをするのだ、といわれても、僕には納得のしようがありません。そして、原罪について訊ねても、僕が理解できるような説明は得られませんでした」

――結局、洗礼は受けなかったわけですね。それで、仏教との出会いは、どういうきっかけだったのですか。
「中学で『諸行無常』という言葉と出会った後、高校1年の夏休みの暑い日でしたね。昼寝をしようと思って、枕になりそうな厚い本を、親父の本棚から2冊引き抜いたのです。すると、『道元』と書いてあって、高校で習った『正法眼蔵』だったのですよ。そしてページをめくったら、いきなり一番有名な一節が出てきたのです。

『仏法をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふは、自己を忘るるなり』

これを読んで、えーっと思った。仏教ってそういうことなのかとはじめてわかりました。僕は、自己とは何かを知りたくて、苦しみに苦しんできたのですが、道元は『自己をわすれろ』というんです。全然違う発想なのですね」

――仏教の難しさであり、おもしろいところですね。
「これは『諸行無常』ということを別の言い方で言っているのかな、と。わかりはしないのですが、その言葉が頭にどかーんと入って、忘れようにも忘れられない。そして、これは問い方を変えよと言っているのではないか、と思ったのです。自己とは何かという問い方は、必ず行き詰まるから、違う問い方があるのではないか、と。そして、これがわかるには一生かかるかもしれないな、とも感じました」

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