人は120歳まで生きられるようになる。しかし…
私が「宗教」というものに、あらためて強い関心を抱き始めたのは、京都大学の山中伸弥教授に話を聞いたときからである。
山中教授は、ヒトのiPS細胞の作製に成功して、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。その山中教授には、京都大学を訪ねて三度お目にかかっているのだが、三度目に、次のような話をされた。
「再生医療が普及して、10年後ぐらいには、ほとんどの病気が治ることになる。これはよいことではあるのですが、人間死ねなくなる。平均寿命が120歳くらいになるのではないでしょうか。となると、これまでは、日本人は、だいたい20年間教育を受けて、約40年働いて、そして約15年間、年金で楽しい老後を送るというレールができていたのですが、定年後40年、50年生きなければならなくなります。さあ、どうすればよいのですかね」
人生120年となると、これまでの人生設計を根本から変革しなければならなくなる。40年、50年を生きる意味、何のために生きるのか、どうすれば生きる意欲が生じるのか、考えなければならなくなる。
そして、ここ数年、座禅に通う人が増えた、宗教書を読む人が増えた、宗教に関心を抱く人が増えた、などということを知ったのである。
実は、私自身、若いときから宗教には少なからぬ関心を抱いていた。学生時代にデカルト以後の哲学書を読んだのであるが、哲学は、理性で追究するものであり、私の能力の問題かもしれないが、理性の限界を感じて、インド仏教に飛んだのである。
だが、30代後半になって、私たちの社会や生活を大きく変えることになる政治、経済にエネルギーのほとんどを投入することになって、宗教とは縁が薄らいでいた。それが、あらためて興味をかきたてられることになったわけだ。そこで、宗教者との対談を行いたいと思った。
「死ぬ」とはどういうことかを知るために
最初にお会いしたのは、南直哉氏であった。
南氏は、恐山菩提寺の院代と、福井県の霊泉寺の住職を務め、『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』という著書で、第17回小林秀雄賞を受賞している。その『超越と実存』を読んで、なんとしても南直哉氏に会いたいと、強く思ったのである。
『超越と実存』の中で、南氏は次のようい書いている。
<一.死とは何か。
一.私が私である根拠は何か。
実をいうと、私はこの二つの問題に、およそ記憶を遡り得る限りの昔から、取り憑かれてきた。そして、次に述べるとおり、この二つは意地悪く絡み合っている。
三歳で重症の小児喘息に罹患した私は、繰り返す絶息経験から、日常的にその先のこと、つまり死ぬことを意識せざるを得なかった。
ところが、それほど重大なことが、何のことか皆目わからなかった。誰に訊いても教えてくれない。いや、誰も教えられない(と、しばらくしてわかった)。>
南直哉氏は、60歳を過ぎたばかりの、上品で知的な僧侶であった。

南氏に会うなり、私はまず、そのことをお父さんやお母さんに訊ねたのか、と問うた。
「父や母だけでなく、周りの大人たちに聞きました。すると、大人たちは死んだ後のことを言うのです。お星さまになるとか、お花畑に行くとか。僕はそんなことどうでもよく、『死ぬ』ってどういうことかを知りたかったのです。誰に訊いても答えてくれない。それで、だんだん、誰もわからないことなのだな、と思うようになって……」
――何歳くらいのときですか?
「小学校に入る前からですよ。それで、自分でわかるしかないかと思って、最初は、死ぬのを見ればわかるかと思って、昆虫とかを殺したのです。だけど、そんなことをしてもわからない。人じゃないとダメかと思ったんけど、そんなことはできません」
――だんだんエスカレートするわけだ。
「僕がしつこいのですね。そして小児喘息がひどくなって、小学校4年生のときにサナトリウムのようなところに入院させられました」
――サナトリウムで、小児喘息は治ったのですか?
「いやいや、サナトリウムは散々でした。もっとも、5年生の終わりに、アレルギー性小児喘息に詳しいお医者さんに会えて、治してもらいました。だけど、頭の中に打ち込まれたものはどうしようもない。治りっこないですよ」
――すると、小学校、中学校は友だちもできなかった。それで、学校に行くのは嫌で、ひきこもりにはならなかったのですか?
「うちは両親とも教員なのですよ。親父は小学校の教頭で、中学校には母親の元上司がいました。それに、あの頃の地方都市では、『不登校』なんて頭に浮かばなかったですよ」