覚えた絵空事を使ってしまう「知識の誘惑幻惑効果」から自由になる法

お題エッセイ、ついに最終回!
佐倉 統 プロフィール

現代を代表するSF作家であるグレッグ・イーガンは、こう述べている。

「身のまわりの機械が具体的にどんな仕組みで動くのかを人々が理解するのをやめたら、その人々にとって周囲の世界は意味不明な夢の風景と化してしまう。制御も理解も及ばないテクノロジーは、崇拝でなければ憎悪を、依存でなければ疎外をしか引き起こさない」(グレッグ・イーガン『万物理論』山岸真訳、創元SF文庫、1995/2004、pp.51-52)

そして彼は、この疎外をなくすのは科学ジャーナリストの仕事だと力説している。

グレッグ・イーガングレッグ・イーガンのHP。本人は素顔を明らかにしない覆面作家だ

それは一面では正しいのだが、しかし、啓蒙活動によって科学技術に関する知識が身につけば疎外感がなくなるかというと、事態はそう単純ではない。

知識が身につくことで、かえって、知識を使わない方が良い場面でも使いたくなってしまい、現象への理解が遠のくことがある。科学的知識による誘惑幻惑効果(seductive allure effect)という現象だ(この日本語は佐倉の意訳にして試訳。定訳はまだないようだ)。

覚えたものは使いたい!

知識の誘惑幻惑効果が最初に報告されたのは2008年。当時イェール大学にいた認知科学者ディーナ・ワイスバーグ(現在はペンシルヴェニア大学)らによる研究だ。

彼女らはイェール大学2年生の秀才たちを対象に、脳神経科学入門講義の最終回に、ある実験をおこなった。人間の心理に関する現象がなぜ起こるかを説明したいくつかの文章を読ませて、その善し悪しを判定してもらうのだ。

説明文は、学術的に妥当なものと不適切なものの2種類があり、さらにそれぞれが科学的用語を含むものと含まないものの2種類ずつ、計4種類が用意された。妥当な説明の内容は、科学的用語の有無を除けば、まったく同じものである。不適切な説明も同様。これらを比較することにより、科学的用語の有無が、読み手への説得力にどのように影響するかを測定できるというわけだ。

脳神経科学を学んだ経験のない一般人は、不適切な説明であっても科学的な用語が加わっていると、説明の内容部分は同じなのに、科学用語がない説明より高く評価した。

それに対して専門家は、科学的用語の有無に関わらず、不適切な説明文は低く評価した。さらに、適切な説明文に科学的用語が加わったものは、その科学的用語の内容が不正確であり説明内容に適していないとの判断から、科学的用語がない説明よりむしろ低く評価した。

しかし、脳神経科学入門の講義を半年間聞いた学生たちは、専門家とは真逆の反応を示した。一般の素人と同じく、不適切な説明文でも科学的用語があれば、そうでないものより高く評価し、さらにあろうことか、適切な説明文でも科学的用語が加わった方を、より優れた説明と評価したのだ。これは、専門家の判定とは正反対だ。

つまり、脳神経科学の知識を知っていることと、それらの知識を適切に使うこととは、別の能力なのである。

むしろ、知識があることがその適切な使い方を妨げ、その知識を使わない方がより適切な場面でも知識を使ってしまう誘惑に、ぼくたちは駆られている。知識は人を、使うように使うようにと誘惑し、幻惑する。

この研究はその後も追試や関連研究が続けられており、2016年には、知識の誘惑幻惑効果は脳神経科学に限らず、物理学や数学、心理学などでも広く見られることが報告されている。普遍的かつ強力なのだ、知識の魔力は。

日本の博物館の数は? ……数百ではありません

知識を適切な文脈で使う能力(これを「リテラシー」と言ってよいのかどうか)を大学の授業で身につけることは難しい。大学のような均質な空間では、実生活におけるさまざまな場面や文脈をすべてシミュレートすることはなかなかできない。限界がある。

むしろ大学以外の場に目を向け、博物館や科学館や動物園を、そのような能力を涵養する場として注目したい。文脈に応じた知識の使い方を身につけるには、博物館などのような一般にも開かれた所で、展示物や来館者と関わりながら、情報がどのように移り変わっていくかを肌で感じつつ学んでいくのが有効ではないかと思うのだ。