覚えた絵空事を使ってしまう「知識の誘惑幻惑効果」から自由になる法

お題エッセイ、ついに最終回!
佐倉 統 プロフィール

で、歌である。りんなが歌っているのは、たとえばこちら。

いや、もう、びっくりするぐらい上手!

沈博士の講演ではシャオアイスが歌を学んでいく過程が紹介されたのだが、おもしろかったのは、息継ぎ(ブレス)をマスターするのが最後まで難しかったというところだ。

考えてみれば、いや、考えてみなくても、AIに息継ぎは必要ない。息継ぎは、人間の歌手の身体性というか身体的限界によって生じる現象である。

しかし、じゃあその限界を突破したAIが、息継ぎをまったくせずに歌ったとしても、聞いているぼくたちは、あまり良い歌い方だとは思わないのである。上手な歌になるためには、人間の身体能力の限界がもたらす息継ぎも含めて、表現していく技術が必要ということだ。

逆に言えば、ぼくたち人類は、みずからの肉体的限界の中で表現様式を磨き、それを楽しんできた。そっと素早く目立たないように息を吸うのか、あえて目立つようにドラマティックにブレスするのか。

ブレス息継ぎは私たちの構成要素だ Photo by Pavel Lozovikov on Unsplash

息継ぎは、歌の表現力を豊かにするためには欠かせない技術の要素なのである。

AIは新しい「美」を生み出せない?

結局、話はAIに何をやらせたいのかということに尽きる。

りんなやシャオアイスが息継ぎをしないできれいに歌うことは簡単にできる。だけどそれを多くの人は、良い歌い方だとは思わない。

今や、彼女たちは人間のような息継ぎの入れ方をすることができるようになった(これはやっぱり息継ぎの「入れ方」であって、息継ぎの「仕方」とは言えないだろう)。だけど、以前にも書いたことだが、そういうAIを欲しい人がどれくらいいるのか、ぼくにはわからないのだ。

今はまだ物珍しいから、りんなやシャオアイスの歌がうまい、すごい、とみんな喜んでいるが、これが巷にあふれたら飽きるのではないか。人と同じように息継ぎができるAIより、人がカラオケでうまく歌えるような支援技術にAIを使った方が、人々を幸せにするという点ではずっと意味があると思うのだが。

囲碁の場合は、AI同士で訓練することで、今まで人間が気づかなかった作戦や進め方が存在することが分かったと言われている。囲碁の膨大な探索空間のうち、人間が利用してきたのは一部だけだったのだ。

歌の場合にも同様のことが生じるだろうか?

これはつまり、「息継ぎを入れない歌い方が実現したことによって、人間の歌手ができなかった新たな表現を実現することができるようになる」ということである。

保守的で懐古的かもしれないけれど、ぼくにはどうもそう簡単にいくとは思えないのだ。