人文知を「絵空事」と呼ばせないために大学人が実践すべきこと

5年間雑誌を作り続けて体得したこと
水越 伸 プロフィール

それは、大学人である自分が書き手として雑誌や本の出版に関わる際に、出版に関するさまざまな活動のいかにわずかな部分にしか関わってこなかったかということだ。

出版に関わる際に、大学人というのは基本的には書き手、小説家などと同じ物書きの立場である。物書きからすれば自分が書いたものが雑誌記事や本になるのであり、それらは自分たちの作品だ。しかし出版という行為を少し広い視野から眺めてみると、企画、編集、執筆、デザイン、印刷、広報、営業、在庫管理、イベント開催などさまざまな営みが総合されて成り立っていることがわかる。

そうしたことは出版学の教科書に書いてはあるものの、自分が物書きでしかないときには身をもって知り得なかった。

水越伸情報学環・福武ホール10周年記念シンポジウムでの『5』に関する水越の説明(清水淳子氏のグラフィックレコーディング、2018年3月24日) 拡大画像表示

しかし小さな雑誌とはいえその出版に関わるすべてを総合的に経験して5年も経つと、人文社会科学であれリベラルアーツであれ、大学の知的営みがどれだけ出版メディアに支えられ、読者共同体によって育まれてきたかということを痛感するのだ。

メディア実践を通して鍛えられた思想

たとえば原稿が進まない書き手を叱咤激励するには、書きかけの断片を読み込み、どれだけそれに共感し、書き手に接近できるかが鍵となる。

編集とデザインの意見が衝突したときには、それを一段高いところで解決する方法をそれこそ弁証法的に探り合うことが大切となる。

イベント広報ではキャッチコピーやビジュアルが決め手となり、一言一句に神経を研ぎ澄ます必要がある。

学会やシンポジウムでブースを出し、たくさんの人に素通りされてもめげないで声をかけ、買ってもらうことで、営業・販売の苦しさと楽しさの一端を体感する。

魅力的な特集テーマを実現するには魅力的な書き手が必須だが、そのテーマに詳しい人が必ずしもよいエッセイを書いてくれるわけではなく、かといって文章が面白くてもそのテーマをよく知らない人では困るから、原稿依頼はギャンブルの要素をはらんでいることを楽しむ。

書き出せばキリがないが、こうした実践知は現在の人文社会科学にとって不可欠ではないかと思う。

オウエンもエンゲルスも、経営者や社会主義者であったのみならず、物書きであり、雑誌や新聞発行に関わっていたことを忘れてはならない。マルクスもまたジャーナリストであり、『ライン新聞』『独仏年誌』などを運営することを通じて社会主義、共産主義を人びとに知らしめていった。

新ライン新聞ドイツの1848年革命を報じる「新ライン新聞」 Photo by Getty Images

同じことは文学の同人誌についてもいえる。今日小説家、詩人などとされる多くの人もまた、ただの物書きだったわけではなく、小さなメディアの維持、運営をしながら作品を生み出していたのだ。

いい方をかえれば、メディア実践はただの雑務ではなく、その作業を通してこそ、思想や文学は誰かに読まれるもの、届けられるものとして鍛えられたのである。

メディア実践者だったオウエン、エンゲルス、マルクス

それは古い時代の話だという人がいるかもしれない。だがそういう批判こそ古い時代のものではないか。