人文知を「絵空事」と呼ばせないために大学人が実践すべきこと

5年間雑誌を作り続けて体得したこと
水越 伸 プロフィール

おもしろいことはエンゲルス自身が実業家として成功を収め、思想のみならず経済的にもマルクスを支えてきた人物だった点である。よく知られるようにマルクスの『資本論』第2巻、第3巻はエンゲルスが編集して出版したものだ。

マルクス・エンゲルスマルクス(写真左上)の家族とエンゲルス Photo by Getty Images

エンゲルスはマルクスを第一バイオリニスト、自分を第二バイオリニストと位置づけていたが、この第二バイオリニストの存在なくして、マルクスも社会主義も、あれだけの影響力を持つことはできなかったにちがいない。

「空想より科学へ」は絵空事だったのか

科学的社会主義とされたものがその後どのような末路をたどったかには、ここでは触れない。ただエンゲルスによって空想的(ユートピア的)だと批判されたオウエンが種をまいた協同組合は、世界各地のさまざまな領域に根づき、健在である。

現在、協同組合主義がデジタル・メディア社会のなかで新たな役割を担う可能性をはらんでいることについては、デジタル・プラットフォームを論じたこの連載エッセイ(お題は「必要悪」)ですでに論じたとおりだ。

デザイン批評家の柏木博は、家事労働とデザイン史をふり返る著書で『空想より科学へ』に触れ、マルクス、エンゲルスが産業労働だけに注目し、科学を志向する過程において、空想的社会主義者らが射程に入れ取り組んでもいた家事労働や教育、衛生の改革が社会主義の中心的対象ではなくなったことを批判していて興味深い。

すなわち科学的社会主義こそが空想的だったのでないか。

科学的社会主義はイデオロギーはどうあれ、ものごとを絵空事に終わらせずに維持し運営する力や、「おんなこども」の生活環境に目配りする実践感覚が欠けていたのではないだろうか。

そして21世紀の知識人にもその欠如は続いていて、そのことが今日の人文社会科学の危機を招いてはいないだろうかと、僕は考えている。

人文社会科学の危機を叫ぶ前に

新自由主義と長期安倍政権のもとで人文社会科学の危機、あるいは人文社会科学が危機にあるという物言いに接するとき、いつも複雑な気持ちになる。

僕はまちがいなく人文社会科学の伝統の中で育ってきたのでそのおもしろさは人一倍わかっているつもりだし、その意義を主張しもしたい。しかしはたして21世紀前半の現在、人文社会科学は、自民党のきめ細かで地に足のついたメディア戦略に相当するものを持ち得ているのか。

あるいは社会主義、共産主義の知的没落の中で半ば忘れられた、19世紀にオウエンやエンゲルスが発揮した経営能力を有しているのだろうか。

自らが専門とする領域の先端部分に棲息し、それがおもしろいこと、意義があることを、その場所から一歩も動かずに叫んでいるだけでは、「やられてしまう」のは当たり前ではないだろうか。

吉見俊哉は文系とリベラルアーツを峻別した上でその意義を歴史的に論じ、大学が寄与すべきは国家や資本のためではなく普遍的な人類の価値のためだという大きな枠組みを提示した。それを絵空事に終わらせないためには、実践性と批判性をあわせもったデザイン感覚と経営能力が必須となってくる。

どうすればいいのだろうか。その一つとして、僕はすべての知識人、専門家はメディア・リテラシーを学び直すべきだと思っている。『5:Designing Media Ecology』という小さなメディアで僕たちが実践してきたのはそのことだ。

ファイブ『5』のバックナンバー

小さなメディアで得た総合的経験

6人の仲間が7万円を出し合ってはじめたこの小さな雑誌は、企画、原稿依頼、編集、一部執筆、レイアウトデザインから広報、販売まで、すべて自分たちでこなしている。

印刷は札幌の会社にお願いしているが、出版社は介しておらず、ISBNも取得しているが、ウェブやSNSもすべて自分たちで回している。おまけにラジオ5もはじめたが、それについてもこの連載(お題は「可視化」)で一度語ったことがある。

知り合いからはすぐにつぶれるんじゃないかとヒヤヒヤされながら、かれこれ5年続いている。その過程で僕は、次のようなことを身をもって知ることとなった。