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リクルートスーツは「若者画一化の証」だと嘆く人に強く言いたいこと

深く考えずに叩いていませんか?
就活の時期や入社式の季節になると、いまや風物詩のように話題になる「リクルートスーツ黒一色問題」。若者たちが揃って黒のスーツを着ていることは、彼らの「画一化」の表れとされ、社会の保守化や戦時中の服装統制と結び付けて批判されることもある。だが簡単にそう言ってしまっていいのか。服飾史研究が専門の安城寿子氏はそうした見方に批判的だ。

それ、〈若者劣化言説〉ではないですか?

その語り口こそが画一的に思えてならない。どれくらい本気で言っているのか聞いてみたい気もする。そんなに問題だと思うならば、就活学生にではなく、経団連や就活コンサルタントやアパレルメーカーに向けて言ってみてはどうか。

リクルートスーツをはじめとする若者の服装の「画一化」を憂う言説のことだ。

どれもこれも、服装という領域に関わりのある「個性」以外の要素を十分考慮せず、丁寧なヒアリング調査を試みるわけでもなく、「若者たちが似たような服装をしている」すなわち「個性を押し殺している」と短絡し、さらにそれを社会全体の保守化や右傾化の問題へと飛躍させるところが判で押したようにそっくりで、恐ろしい。

 

私は、これまでに二度、それも比較的最近、ある新聞社とテレビ局からリクルートスーツに関する取材を受けたことがある。何を言っても「今の若者は画一化されていて個性がない」という結論に落とし込もうとするので、怖くなり、「短絡的過ぎるのではないか」と言ったところ、一方はコメントが掲載されずに終わり、もう一方は「もう少し他の方の声も集めてみます」ということになった。

マスコミ研究が専門の方々からすると「何を今さら」だろうが、記事の落としどころは既に決まっていて、そこにかっちり嵌まるコメントを求めて取材しているのが明らかだった。

人より多く服飾関連の資料(史料)を見てきた身としていまだ仮説の域を出ないながらも思うことは、一部の若者の間で奇抜な服装が流行れば「モラルの低下」と言って嘆き若者たちがそろってきちんとした服装をすれば「体制迎合」と言って嘆く、そういう言説の〈型〉のようなものが随分前から存在していて、その時々の若者の装いは同時代においてはなかなか肯定的に語られることがない。いわゆる〈若者劣化言説〉の亜種とも言える。

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一見もっともらしく聞こえるため、うっかり説得されてしまいそうになるが、リクルートスーツを批判する言説もこの範疇を出るものではない。と、私は考えている。

ちなみに、類似の言説として、「今の若者が成人式でそろって振袖を着るのは和を乱すのを恐れてのことだ」という振袖バージョンも存在することを最近発見した(*1)。

どうにも釈然としないので、まだまだ結論を得る段階には至っていないということを断った上で、以下に、リクルートスーツを批判する言説がしばしば見落としているいくつかの視点を提示することにしたい。