【太平洋戦争秘話】74年前、七夕の空に散った日本初ロケット戦闘機

潜水艦がドイツから持ち帰った最新技術
神立 尚紀 プロフィール

飛行場に戻らなければ助かった

6月12日、ロケットエンジン試運転成功の一報が入る。エンジンを取りつけた秋水の初飛行は7月7日と決まった。試作機のテストには、海軍航空技術廠飛行実験部が改組された横須賀海軍航空隊審査部の搭乗員があたるのが通例だが、それまでのいきさつから、テストパイロットには犬塚大尉が選ばれた。場所は当初、厚木基地が予定されたが、

〈当時の秋水のエンジンの状態は、今日よかったからといって明日はどうだかわからない、というありさまだったので、激化した敵空襲下、悪路を予定の厚木飛行場まで運ぶことはエンジンをこわしに行くようなものだ。〉(柴田大佐手記)

と、横須賀基地で行うこととなった。ただ、横須賀の追浜飛行場は、滑走路の長さが1200メートルしかなく、重量軽減のため、搭載する燃料を半分以下に減らす措置がとられた。

 

いよいよ初飛行当日。期待の新鋭機とあって、横須賀基地には、陸海軍の将官クラスをはじめ、多くの人が集まった。燃料注入に手間どったことから、準備が完了したのはもう午後5時に近い時間だった。

昭和20年7月7日、初飛行直前の「秋水」。操縦席に座るのは犬塚大尉

当時、横須賀海軍航空隊戦闘機隊の先任搭乗員(下士官のなかで序列がもっとも上)だった大原亮治さん(当時・上飛曹)の回想――。

「その日、鉈切山に掘られた防空壕にある兵舎で休んでいると、次席搭乗員の滝沢信平一飛曹が、『これから秋水が飛びますよ』と呼びに来てくれた。それで、そうか、じゃあ見に行こうと自転車で、飛行場の広場を横切って、滑走路の端のところへ行きました。ちょうど秋水を左後ろから見る位置です。滑走路の脇には大勢の人がいて、陸海共同開発だから陸軍の人も並んでいましたよ。

いよいよ離陸、というときは、ロケット噴射をするからみんな機体の後ろからよけました。するとノズルから、ホヤホヤホヤっと白煙が出て、間もなく轟音を上げて離陸滑走を始めた。滑走路の半分ほどのところで離陸、車輪を落とすと見る間にグゥーンと背中を見せて急上昇、45度ほどにも見えましたが、すごい角度だと思いましたね。見守る関係者がいっせいに拍手しました。

秋水の離陸。滑走路脇で白旗を掲げるのは飛行長・山下政雄少佐

ところが、高度4~500メートルに達したと思われたときに、ババッバッバッという音がしてロケットが停止、秋水はすぐ右に急反転したんです。急反転してしばらく飛んで、それから旋回して飛行場に戻ろうとしたんでしょう。燃料放出の白い尾を曳きながら、垂直旋回に入るとずっと同じ調子で(操縦桿を)引っ張ってきたんですよ。貝山の手前、格納庫群の上を飛んだように思います。

しかし、飛行機を低速で、垂直旋回で引っ張りすぎるとステップターンストールといって、失速してストーンとひっくり返っちゃう。だから私はそれを見ながら、あ、これはだめだ、だめだ、近すぎると思いました。いまで言うダウンウインド、風下のほうへ行くコースね、当時はこれを第3コース(海軍では敵性語廃止などということはなかった)と言ったんですが、それが、スピードのわりにあまりにも滑走路から近かった。

そして飛行場の端まできたときに、ついに失速してバーンと、横になったまま飛行場の外堀に墜落、ものすごい飛沫が上がりました。

飛行場に戻らずにそのまままっすぐ飛んでいれば助かったでしょう。その先は東京湾で、障害物は何もないんですから。予期しない事態が起きて、慌ててしまったんでしょうかね。テストパイロットの犬塚豊彦大尉は重傷で救出されましたが、その日の夕方、我々が入湯上陸(外出)で整列するときに、当直将校が、『輸血の急を要する。O型の者は残れ』と。私はB型なのでそのまま外出しましたが……」