【太平洋戦争秘話】74年前、七夕の空に散った日本初ロケット戦闘機

潜水艦がドイツから持ち帰った最新技術
神立 尚紀 プロフィール

技術資料をドイツから潜水艦で運ぶが……

ドイツが、かねてより開発を進めてきたロケット戦闘機・メッサーシュミットMe163Bによる戦闘飛行隊を編成したのは昭和19(1944)年5月。その実戦配備に先立って機密情報が日本にもたらされ、Me163Bと同じくドイツ空軍の最新兵器だったジェット戦闘機・メッサーシュミットMe262とともに、日独軍事援助協定に基づいて日本に技術資料が提供されることになった。

ロケット戦闘機「秋水」。ドイツのメッサーシュミットMe163Bをもとに開発された

アメリカは、これまでの爆撃機とは桁違いに高性能なB-29の開発を進め、日本本土への爆撃が現実の危機となっている。ロケット機、ジェット機の性能に注目した日本側は、これらを国産化し、陸海軍共通の防空邀撃(ようげき)戦闘機として配備する方針を固めたのだ。

ドイツ政府より提供された技術資料は、供与されたUボート(ドイツの潜水艦U-1224、日本名・呂五百一潜)と、日本から往復の連絡任務についていた伊二十九潜の2隻の潜水艦で運ばれることになり、呂五百一潜は昭和19(1944)年3月30日にドイツ・キール軍港を、伊二十九潜は4月16日、ドイツ占領下のフランス・ロリアン軍港をそれぞれ出港。しかし、呂五百一潜は5月14日、大西洋で米駆逐艦の爆雷攻撃で撃沈され、伊二十九潜も、7月14日、シンガポールまでは無事に帰ってきながら、日本への帰途(7月26日)、米潜水艦の魚雷で撃沈されてしまった。

 

不幸中の幸いは、伊二十九潜で帰国の途についていた海軍航空本部の巌谷英一技術中佐が、一刻も早く資料を届けようと、シンガポールから空路、羽田飛行場に帰還していたことだ。が、詳細な図面や重要資料は潜水艦とともにことごとく海底に沈み、巌谷技術中佐が持ち帰ったのは、ごく簡単な設計説明書、寸法の記載のない三面図、おおまかな主翼の断面図、ロケットエンジンの簡単な図面、燃料関係の取扱説明書といったものだけだった。

その間の6月16日、北九州が中国大陸を発進したB-29による空襲を受けていて、防空体勢の強化は待ったなしである。限られた資料をもとに、Me163Bを原型とするロケット戦闘機の開発を陸海軍協同で行うことが決まった。海軍が機体、陸軍がエンジンをそれぞれ担当、試作会社は三菱重工業とする。従来の戦闘機では到達するのに20分以上かかった高度1万メートルまで3分半で上昇するという、前例のない飛行機ということもあり、搭乗員の養成、実験も、機体の開発と並行して進められた。