中島:『神前酔狂宴』を読んでいる時、僕が『秋葉原事件』を書いているときにずっと考えていたことと近いテーマ性を感じました。
秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大は、親との関係に問題もあって、自分に自信が持てないと同時に自分の能力の高さを誇っていた。そうなると、具体的な人間関係がすべて建前になる。すべてが虚偽のやりとりであって、他者と本当の心での交流なんてできない、ということになるんです。
古谷田:その感覚、ちょっとわかります……。
中島:彼は派遣労働を転々として、友だちもいるのに孤独だったんですよ。報道では、友だちがいなかったからとか、派遣労働者だったこととかが問題にされるけど、調べると彼には友だちがたくさんいた。中高からのゲーム友だちとメーリングリストで繋がっていたり、派遣先の友だちと一緒に秋葉原で買い物したりメイドカフェに行ったりしている。
古谷田:社交的だったんですね。先日の、元事務次官の父親に殺された引きこもりだったという男性も、オンラインゲーム上ではあるけれど交友関係はあったとネットニュースで見ました。しかもなかなかの地位が確立されていたという。
私も、本格的にではないけれどソーシャルゲームをやるので、その世界独自の人間関係がだんだんと形成されていく感じはイメージできます。顔のわからない同士で協力してミッションをこなすうちに仲良くなったり、大勢でグループを作っている人たちもいる。
ただ彼は振る舞い方を少し間違えていて、こじれている感じがありました。でもそれはゲームが問題なのではなく、単にマナーとモラルの問題。つまり実社会と同じなんです。オンラインゲームは引きこもりの温床だと言われることもあるけど、それ自体は善でも悪でもないと思います。
中島:オンラインゲームにトポスを見つけることもありますよね。
古谷田:はい。それは小説を読むことにもあると思うし、それこそ文芸の出番だったのかもしれない。彼や加藤智大の場合。
中島:そうなんですよ。調べていくと、加藤智大にとっては音楽にその可能性があったんです。
というのも、まず、事件にいたる経緯から話すと、彼は、ネットの掲示板上で、本当の心で付き合える人間がいるかもしれないと思ったみたいなんですよね。掲示板で最初、彼はネタを繰り出すんです。「ブサイクで能力がない奴は生きる価値がない」なんていうことを過激に書き込んだり、スレッドのタイトルに「世界を平和にしたい」と書いて、クリックしたらひどいことが書いてある、といったネタです。もちろん拒絶する人もいれば、それを面白がってくれる人もいて、面白がってくれる人間を理解者だと思って、狭いコミュニティを作り始めるんです。
すると、ネタで書いていたものがだんだん自分のアイデンティティになってくる。そして理解者だと思っている人に実際に会いに行ったりもする。でも拒絶されるんですよね。つまり、抽象的他者を具体化しようとして、失敗する。
それを繰り返して彼は絶望の淵にたどり着くんだけど、そんな時に、これは事件の三日前くらいの出来事なんですが、一度すごく荒れるんです。職場に行ったら「自分のつなぎ(作業着)がない」といって、大声で騒いだ。
その帰り道の掲示板への書き込みで、いくつか異質なフレーズが出てくるんです。なんだろうと思って調べると、BUMP OF CHICKENの歌詞なんです。歌詞を丸ごと覚えているんですよ。どうしようもない感情の荒立ちに見舞われた時にやってくる言葉が、彼にとってはその歌詞だった。つまり、彼にとって最後の救いがあるとしたら、そういった音楽の言葉、芸術の言葉だったんだけど、それすら蹴飛ばして秋葉原に行ってしまった。
『神前酔狂宴』は、世界は虚構ですべては滑稽な幻であると思いながら、ネタとしてやっていた物語に飲み込まれてゆく、という話でもありますよね。この構造は、僕が繰り返し考えてきた感覚でした。