個展や本のカバー装画も多い人気イラストレーターの松尾たいこさん。デビューしてからは瞬く間に売れっ子になった松尾さんですが、実はそれまでには自信のないままに生きていたそうです。

地元広島の短大を卒業後、地元のメーカーに就職していた、松尾さんは、32歳になってから初めて自分の意思でイラストレーターへの第一歩を踏み出しました。イラストレーターの夢を口にすることすら憚られていたモノクロの人生に少しずつ色がついていくように生きてきたといいます。

松尾さんが描く色鮮やかな絵のように、人生にどうやって色をつけていったのかを綴っていく連載第4回は、母親とのこと。いままで蓋をしていた思いを明らかにしてくれました。

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小学校4年の時の実母との別れ

私が小学4年生の時に、実母は家を出て行きました。
その後、再会したのは、私が成人してからのことになります。

実母がいなくなってすぐの夏休み、私と弟は東京の親戚の家に預けられました。
そして夏休みが終わり、家に戻るとそこには知らないおばちゃんがいたのです。

それから、春になるタイミングで父の転勤があり、東京へ。
父から「今日からお母さんと呼ぶように」と言われ、「新しい母」との暮らしが始まりました。

東京の小学校では、誰も私の母が継母だとは知りません。私も特別な目で見られるのがいやで、誰にもいいませんでした。他の友達と同じように、母に甘えているふりをしました。
でも時々、友達のお母さんから「顔がよく似ているね」と言われ、複雑な気持ちでした。

母は、特に私に厳しかったように思います。

「女の子だから間違いがあってはいけない」そう思っていたのでしょうか。それまでは疑問に思ってもいなかった、自分ではなにが悪いのかわからないことまで制限されるようになりました。

子供の頃から、洋裁を仕事にしていた実母の影響で、いつもおしゃれな服を作ってもらったりして着ていたので、ファッションが大好きでした。その延長線上で、色付きのリップを塗ってみたり、かわいいアクセサリーをつけたり、おしゃれを楽しむことは私には当たり前のことでした。そんなことを「色気づいている」といやがられました。

また、大好きな友達のことを「あそこは〇〇だから」と差別的な言葉で付き合いをやめるよう言われたことも、一度や二度ではありませんでした。
私はその本人が好きなだけだったし、歴史的なことやその家庭の貧富など、気にしたことがなかったのに。

私を取り囲む世界はすっかりグレーになってしまいました。

小学校の卒業式にて 写真提供/松尾たいこ