『君の名は。』が描く「忘却」と「記憶」が私たちに問いかけるもの

美しい「風景」にひそむ既視感の正体

※この評論には映画『君の名は。』の内容と結末に関する記述があります。作品を未鑑賞の方はご注意ください。

スマホの時代の「忘却」を描いた映画

現代は健忘症の時代である。スマートフォンとともに生きるわれわれは、SNSのタイムラインに流れてくる世界中の戦争、飢餓、災害などのニュースを日々あまた目撃し、そのつどそれなりの誠実なショックをもってそれらに応答するが、そのひとつひとつを長いあいだ記憶にとどめておくことは極めてむずかしい。

いまいち自分に関係のある事象としては捉えがたいような「世界」の出来事どころか、地理的にも時間的にもわれわれからさほど隔たっていない――したがってせめてわれわれくらいは記憶しておくべき――出来事でさえ、われわれは自分でも驚くほど、いとも簡単に忘れてしまうことができる。

これから本稿が扱おうとしている新海誠の『君の名は。』(2016)は、まさしくスマホの時代の忘却を描いた映画である。

東日本大震災の5年後に公開されたこの映画を観るわれわれは、糸守という地方都市の隕石落下による壊滅を東京との対照のもとに描き出した本作品の記録的な大ヒットの理由を、忘却という観点から捉えてみなくてはならない。

作品内における糸守の壊滅と、タイトルにもなっている名前の忘却は、最終的に観者に一種の(自己)肯定感を与えるということをまず本稿では論じるが、さらにすすんで、映画がそうした肯定感の演出に対する(自己)批評的な身振りを示している可能性までを示唆できればと思う。

 

「君の名前は?」――忘却と肯定

主人公の少年、瀧は、2016年の東京に父とふたりで暮らす高校2年生である。この2016年を仮に「現在」とすれば、彼はそこから3年前の2013年に、自宅のテレビでティアマト彗星の飛来のニュースを知り、屋上へ駆け上がってそれをじっさいに目撃して「それは、ただひたすらに、美しい眺めだった」という感慨を漏らしている。

この彗星から分裂した核が、もうひとりの主人公である三葉の住む糸守に落下するわけだが、彼が記憶しているのは彗星の「美しい眺め」ばかりであり、災害のほうは――作中の言葉でいえば「カタワレ」の顛末は――、すっかり忘れてしまう。

男女が入れ替わる話である『君の名は。』という物語は、2016年の時点でヒロインの三葉がすでに死んでおり、その事件をヒーローの瀧が忘却しているという前提のもとに進行してゆくことになる。

そこで、ある朝目が覚めると三葉の身体の中に瀧の意識が入りこんでおり、やがて自分の東京生活には関わりのない(=忘れてしまいうる)ディザスターを強制的に追体験させられるというSF的な物語内容は、さしあたり、「歴史を記憶せよ」という倫理的な命題が少年に突きつけられる話として理解することができる。

三葉がその跡継ぎ(?)であるところの宮水神社は、200年前に起こったとされる「繭五郎の大火」以来文献が消失して伝統の「意味」は喪われてしまった、けれども「かたち」だけでも保存して歴史を受け継ごうとする家であり(三葉を嘲弄する同級の男女3人組は、糸守における代表的な歴史の忘却者である)、物語の現在においてすでに死者である三葉は、あるひとつのすでに喪われ忘れられた小さな歴史のアレゴリーとしてキャラクタライズされていると言える。それを東京に住む瀧が「思い出す」。

だが三葉を「思い出し」、そして救おうとするさんざんのコミットメントにもかかわらず、瀧は彼女の名前さえ記憶にとどめておくことができないのであり、さらには、三葉と対面するカタワレ時の直後、彼は自分が糸守へはるばるやって来た理由さえ忘れてしまう。それも、その記憶は時間とともに徐々に風化してゆくのではなく、瞬時にすべてが忘れられてしまうのだ。これは忘却が本作品のテーマのひとつであることを示すだろう。

ここで「歴史を記憶せよ」という先のテーゼは、一歩すすんで、喪われてゆく個々の歴史をいちいち記憶していることなどもはや不可能であるという事態そのものをわれわれはいかに受け止めるべきなのかという問題――すなわち、「健忘症を自覚せよ」という命題へと変化する。

これは東京に住む瀧が三葉=糸守の死を思い出し、そしてふたたび忘れる物語なのだ。