「戦争反対」を唱えていたはずの講談社創業者は、なぜ変節したのか

大衆は神である(57)
魚住 昭 プロフィール

刷れば刷るほど赤字が増える

同じころ、清治の頭を悩ます問題がもうひとつあった。報知新聞の経営状態の悪化である。

清治の姪・市子(桐生野間家の3女)の夫で、報知の幹部だった岩崎英祐によると、日中戦争で「英国や米国からの圧迫」がひどくなり、為替が「窮屈になって」、報知が使っていたカナダ産の輸入紙の値段が急騰したことが原因だった。

 

このため報知は、新聞を刷れば刷るほど赤字が増えていった。赤字を補塡するのに毎月、講談社から持ち出す金もどんどん膨らんだ。このままだと、講談社は報知と共倒れしかねないような事態になった。以下は岩崎の証言である。

〈(補塡金は)低いときで五万円から六万円というときもありましたが、それがだんだん膨らんで八、九万円から十二、三万円を毎月のように社長が負担するようになったわけです。それ以外のご負担がまだあるわけですね。販売拡張のために『講談全集』とか『少年講談全集』『修養全集』などの返品を(講談社から)頂戴しまして販売店の援護物として使ってもらいました。

それで、(紙代が高いので新聞の)発行部数が増えれば増えるほど赤字が増えます。しかし、一方で部数が減ると広告収入が減るので、発行部数の調整ですね。部数を合理的に減らしながら赤字を少なくするにはどうすればいいのか、ということが社長の一番の憂慮というか、お亡くなりになる前の悩みの種だったんです。

そこへもってきて恒さんがご病気になる。しかも普通の病気じゃなくって、もう命がないとあきらめてくれと医者からおっしゃられたわけですね〉

当時、清治の名代で報知を仕切っていたのは、赤石喜平である。赤石は当初、講談社の総支配人格と報知の監査役を兼ねていたが、昭和9年ごろから講談社を離れ、報知専従の取締役になっていた。その赤石について岩崎は次のように語っている。

〈赤石さんはなかなかこのほう(小指を立てる)が好きでね。何か相談があって探すと、どこへ行ったか行方不明で、夕方六時ごろからいなくなってしまう。料亭で誰か客を呼んで飯食っているならいいんですが、待合いなんかにいて、こっちが二、三人で行くと(女性のいる部屋で)面会するんだから豪傑だよ。

こっちは、書類があって、それに今夜中に判子をもらわなければならないでしょう。赤石さんはここで面会するというんですよ。赤い布団が敷いてあって、赤石さんは丹前姿で、そばに女性がいる。そこで笑いもしないで、むっつりして、恥ずかしげもなく(書類を見ながら)「なるほどね、いいじゃないですか」なんて言うんですよ〉

清治はそうした赤石の行状を見て見ぬふりをしてきた。何と言っても、赤石は師範学校時代以来の友人で、講談社発展の大功労者だからである。しかし、清治の赤石に対する寛容さにも限度があったようだ。岩崎の証言がつづく。