「戦争反対」を唱えていたはずの講談社創業者は、なぜ変節したのか

大衆は神である(57)
魚住 昭 プロフィール

わずかの間に……

次に、清治没後の昭和15年(日米開戦の前年)に行われた『少年倶楽部』編集部座談会の速記録を掲げるのでお読みいただきたい。なお、文中に登場する加藤は『少年倶楽部』の元編集長・加藤謙一、須藤は加藤の後任の編集長を務めた須藤憲三である。また、川上は元編集部員の川上千尋。

〈川上 (前略)ちょうど事変(日中戦争)が始まって二月か三月しかたっていなかった。大場鎮(上海戦線最大の激戦地、昭和十二年十月末に陥落)が陥ちて(日本軍が)南京に進むころで、そのころの会議だったのです。社長が「自分は戦争についての感想がよほど変わってきた。今まではどちらかというと戦争否定といったような気持ちだったが…」というようなことから、「今次の戦争は正しい」ということ、それからまた例によって人類の永遠の平和といった理想に達する道をお示しになった。(略)

 

加藤 それはありましたね。前の、戦争というものに対する考え方というのは、社長は人を殺したり、やっつけたりするといったようなことをするのは道徳じゃないと思っておられたろうと思います。避けられるものなら、戦争というものはないほうがいいというふうに考えておった。しかし、今回はそうは考えられない。正しい道を教えるための戦争ならやはりやらなくちゃならないというふうに考えられたらしい。

須藤 「戦争によって人類は堕落から救われる。戦争は神の国に近づく一つの道ではないかと思う」とか、「堀内(文次郎・陸軍)中将は講談社の雑誌は国防雑誌だと言ってくれた」「今日の日本の強さは我々の雑誌の力がよほど大きな働きをしているじゃないか」といったようなことを言っておりましたね。そうして「この機会を利用して国民の道徳を正にして強なるべく努めていきたい。それについては面白味を忘れちゃいかぬ」と付け加えておられた。「みんなが私心私情というものを忘れて社の心、社の気持ちになってやるけれども、むしろこの際は社のためとか何とかいうものを捨てて尽忠報国の一念でやっていくべきである」といったようなこともありました。

川上 この事変に勝つためには、自分の全財産を投げ出してもいいといったようなことを言われた。

須藤 それは(社長が)亡くなる年の話ですね。

加藤 (昭和)十三年じゃないか。

須藤 そうです。十三年は、もう戦争にはどうしても勝たねばならぬということを強調されたですね。お爺さんからお婆さんから子供まで一緒になってとにかく勝たねばならぬといったようなことを言われた〉

ご覧のように清治の考え方はわずかの間に大きく変化している。変化の理由は次章で改めて検討するつもりだ。ここでは、清治の日中戦争に対するスタンスが揺れ動いたことと、清治が昭和12年9月に新設された内閣情報部の参与(勅任官待遇)に、朝日新聞主筆の緒方竹虎(おがた・たけとら)、実業之日本社社長の増田義一(ますだ・ぎいち)らとともに選ばれたことを覚えておいていただきたい。

清治のゴーサインを得て、『キング』をはじめとする講談社の各雑誌は本格的な戦時モードに突入していく。それを端的に示すのが、清治が「戦争を謳歌するようなもの」と叱った「支那事変美談武勇談」(昭和13年新年号付録)の続編である。

昭和13年3月号のキング編集局「謹告」は、「支那事変美談武勇談」が「非常な好評で、更に続篇を刊行するやうにと各方面から、熱烈に要望されますので」と、南京陥落を扱った2段組み304頁の姉妹編『支那事変忠勇談・感激談』の刊行を誇示している(註1)。