「戦争反対」を唱えていたはずの講談社創業者は、なぜ変節したのか

大衆は神である(57)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

清治の長男・恒の病状が深刻になっていったそのころ、日本は長い戦争の時代へと突入しつつあった。当初、強く反戦の姿勢を打ち出していた清治だったが、ある時から一変し、「戦争の正しさ」を説くようになる……。

第六章 雑誌王の蹉跌──巨星、墜つ(2)

日中戦争

そのころ盧溝橋事件(昭和12年7月)に端を発した日中戦争(支那事変)が泥沼化していた。

清治は日中戦争に対し、どんなスタンスで臨んだのだろうか。講談社の運命にかかわる重大事なので、ここでご説明しておきたい。戦後に編纂された社史『講談社の歩んだ五十年』には、笛木悌治や元『キング』編集部員の黒川義道らの次のような談話が掲載されている。

 

〈笛木悌治談 社長は講談を愛し、武道を愛好したというところから、非常に好戦的だという見方をされている。ところが私が思い出すのは、ちょうど芦溝橋で銃声がとどろいたときのことなのです。目白の本邸で会議をやっていたのですが、この情報が入りました。

そのときの社長の困ったようすですね。「困ったな、大変なことになったな」とおっしゃった。自分の一社のことではない。大戦争になるということを予想されたのです。「大変なことになった、困った、困った」と会議の進行中にもいっておりました。われわれもこのことが、そんなに大事件になるのか、どうして社長はああ心配していられるのかと思ったものでした〉

〈黒川義道談 支那事変の起きたときに、「キング」では「支那事変美談武勇伝(ママ)」をやりました。その見本ができた夕方、「淵田君、橋本君、黒川君、堀江君すぐこい」という電話があって目白に呼ばれました。一体何事だろうと思って、出掛けたわけです。詳しい話は省きますが、社長がいうには、「諸君は、編集者として、こういうものを作らないと売れないのか、戦争を謳歌するようなものを付録につけないと売れないのか」ということで、だいぶお叱りをこうむった。

「とにかく戦争がこういう風になるのは国家として非常な不祥事である。下手に国民に戦争というものの関心をもたせると、世界と戦争をしなければならないようになる。米英と戦争すると日本は勝てない」というようなことを十二時すぎまでお説教をくったことをおぼえております。(略)野間清治という人は資本主義でかたまっているとか、好戦者だとか世間ではだいぶ誤解している人があるようですが、さにあらず、ただ念ずるところは日本を正しい国家とするために専念されたのです。戦争には非常に反対されておったんです(後略)〉

これらの談話を読むと、清治は終始、日中戦争に反対していたかのように見える。しかし、事実はそう単純ではない。