知性を使って歴史を楽しもう! 論理と解釈の歴史学

<日本史のツボ>のツボ 第3回その②
本郷 和人 プロフィール

すぐれた「歴史学者」になるために

ぼくはそんな感じで毎日を送っています。

前回書いたように,こうした作業には根っこに「考える」があるんです。でも30年ものあいだ「この史料のこの本よりもこの本がよくて、さて、じゃあそのデータを取り寄せて、次はこのくずし字を読むんだよな、えーと、ここで点をうたないと読めないか・・・」とやっていく。

 

つまり(1)の①~④(第3回その①参照)の「作業」をくり返していくと、自分が「考える」ことを第一とする「研究者」ではなくて、なんだか「歴史職人」になってしまっているんじゃないか、という恐怖に駆られることがあるんです。

職人? いいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかしやはり、ぼくたちは研究者ですので、なによりも「考え」たい

じっくり腰を落ち着けて考えたいのですが、仕事が追いかけてくるので作業に注力せざるを得ない。そうすると、焦る。友人の研究者たちはどんどん「考え」を進めているのに、ぼくは今日も「調べる」だけだなあ。

毎日やっているから、それは手際は良くなるけれど、それは熟練工だということだよなあ。それになりたかったわけじゃない。良い職人になるよりも、未熟な研究者がいいんだが。手の作業ではなくて,頭を使いたいんだ。

そうした思いがあるものですから、ぼくは実証史学に対して点が辛いわけです。そんなもの、時間さえかければ(といっても、何十年も、ではありますが)誰でもできるじゃないか、と。

まあ、たしかに『大日本史料』にはどこを探しても編纂者の名前が書いてない。ある意味、一人一人の個性をなくすことが求められる。これを代々の編纂者の仲間入りができてうれしい、と捉えるか。「ぼく」が埋没してしまってきついなあ、と捉えるか。これは「永遠」をめざす「研究の2つのパターン」ということにも通じる話なので、また稿を改めて考えましょう。

最後におまけ。こうした史料編纂所の努力を「おまえたちは調べているだけだ! 考えていない!」そこで武士の情けで批判の言葉を止めていますが、つまりは「お前たちは学者という名に値しない!」と断じた人がいました。だれでしょう? 答えは、皇国史観の論理的指導者、平泉澄博士です。そのお話もいつか、また。

まあ、そんな研究者の葛藤などはどうでもいい。もう一度申しますが、読者の皆さんは、水面下の実証性は研究者に任せて、表に出てきた歴史の論理、解釈を知性でもって楽しんで下さい

一貫した論理には説得力があり、おもしろい。破綻していると,読みにくいしつまらない。おもしろい歴史の解釈が提供できてこその、すぐれた歴史学者だと思うのです。