知性を使って歴史を楽しもう! 論理と解釈の歴史学

<日本史のツボ>のツボ 第3回その②
日本は世界で一番、質量共に豊かな文献資料が残っている国である。そのためか、実証史学ということにうるさい。史料に基づく。史料で裏取りをしてものを言う。こうした方法を身につけることが実証史学であるし、大学で日本史を専攻すると、ゼミナールにおいては、こういう態度を体得するように教育される。それは間違いではないのだが、面倒な問題もまた孕んでいる。今回はその「実証史学と歴史の楽しみ方」のお話である。

秀頼が秀吉の実子か分かる科学的な方法

出生の秘密というと、最近、九州大学の服部英雄先生と福田千鶴先生とのあいだで、豊臣秀頼は果たして秀吉の実子かどうか、という論争がありました。

お二人の主張はそれぞれの著書で確かめていただくとして、これなどはまさにどんな歴史文献を見ても本当のところは分からない難問です。ぼくが思うに、これこそは文献史学に拘泥せず、他の科学的学問の助けを借りれば良いのではないでしょうか。具体的には産婦人科のお医者さんの判断を聞くべきです。

 

ぼくは複数のお医者さんに尋ねました。豊臣秀吉はたくさんの女性と関係をもったが、子どもができなかった。淀殿だけが二人の男子を産んだ。特定の男女の相性が良い場合、こういうことが起きるのでしょうか。お医者さんは皆さん同じように答えました。

いえいえ。男女の相性が良い、なんてことは科学的にはありません。

一方で、子どものできない男性というのは現代でも普通にいる。秀吉はそういうタイプだと考えられる。でも、そうした人が子どもを作れる可能性は「ゼロ」ではない。ごく「まれ」にある。ただし、その「まれ」が2度起きる、しかも同じ女性との間で、となると、その確立はとんでもなく低いものになる。

とすると、秀頼は秀吉の実子とするよりも、淀殿は妊娠するために手段を選ばない女性だった、と考える方が自然ですね。

なるほどね。科学的には、秀頼は秀吉の実子ではない可能性が極めて高いのですね。

でも、ここで歴史学として大切なことを忘れてはいけません。天下人・秀吉が「この子はワシの子だ。だからこの子を豊臣政権の後継者とするのだ」と言えば、誰もそれに異を唱えることはできない、ということです。

専制君主の意志は何よりも強烈で重い。まして日本では、「血より家」という原則がある。この原則については詳述を避けますが、ようするに「家」の価値を上げるなら、後継者は血の繋がらない「養子でOK」というのが我が国だ、ということです。

たとえば島津家、大友家は「わが家の初代様は源頼朝公のご落胤である」と誇っていました。貴族の最上席を占める近衛家は、皇室から養子を迎えて家の存続を図りました。家を繁栄させる(つまり格上の家からやってくる)養子は歓迎されたのです。「血より家」。この法則が当てはまらないのは、万世一系を誇る皇室だけかもしれません。

では、平清盛は忠盛の実子なのか?

実は先の清盛の場合も、彼が白河上皇の落胤であることを、この法則をもって否定することができます。

清盛には5歳ほど年少の、家盛という弟がいました。彼は忠盛の正室である藤原宗子(池禅尼)の第1子。宗子が幅広い人脈をもつ貴族の女性であったことが影響して、清盛と家盛は平家の後継者の座を巡ってしのぎを削りました。

結局このレースに勝利したのは清盛でしたが、彼が本当に白河上皇の落胤なら、こんな事態は起こりえません。「血より家」。白河上皇、鳥羽上皇の後援を得た清盛は家盛など歯牙にもかけず、平家の棟梁に収まるはずだからです。

それがそうではなかった、ということは。やはり清盛は家盛と同様、忠盛の実子だったのです。

なお悪のりして考えてみましょう。淀殿はとんだ毒親だったというのが定説です。大坂の陣において、秀頼の戦場への出馬を絶対に許さない。危ないからダメ。いや、落城したら自害するのだから、武将の花道を飾らせてあげようよ、と誰しも思うところですが、毒親・淀殿には正論は通じなかった、というわけです。

でも。もしも秀頼が実父そっくりだったとしたらどうでしょう。