損保ジャパン4000人削減「介護へ転属」の深層と、この社会のバグ

これは職業差別ではないのか
御田寺 圭 プロフィール

介護への転属は「懲罰」なのか

まず、今回の一件に対する世論の反応としてとくに気になったのが、世間の人びとが、介護事業のことをある種の「懲罰」とか「苦役」とほとんど同一視しているということだ。

今回の損保ジャパンの「配置換え」で、何人の社員が介護関連事業へ移ることになるのかは不明である。だが前述の報道を受けて、ネットでは少なからぬ人が、転属先となる介護業種のことを「ブラック」「劣悪な業種」と評して憚らなかった。

こうした反応には、高い需要があり、またその需要が今後も増加していくと見込まれているにもかかわらず、介護従事者の待遇が一向に改善しない理由が端的に示されているように思える。

 

いわゆる「エリート」の多くは、介護事業など自分が従事すべきものではないと考えているだろうし、無理にそのような職種に従事させられることは、まさしく「罰」であると思えてしまうものなのかもしれない。部外者の反応も「大企業はおそろしい手段を持っているなあ」と恐々とするばかりで、介護事業への配置換えを「懲罰」と同様のものとしてとらえる人々の暗黙の意識については、ほとんど問題視されていないようだった。

ここに、現在の日本社会がとくに違和感なく内面化している差別意識が垣間見える。ただしそれは、かっこつきの「差別」としてカテゴライズされることもなく、もはや当たり前のものとして浸透しているようだが。

つまるところ、介護は「だれでもやれるような仕事」であり尊重されず、また同時に「だれもがやりたがらない仕事」であるがゆえに、「だれもやりたがらない仕事をあえてやっているような人は、きっと能力の低い人なのだから、そんな人の技能には高い賃金を支払わなくてもよい」――という理屈が導出されているのではないか。

たしかに介護事業は、かつて家族を構成するメンバーが豊富で、老後の面倒は家族がみるべきと考えられていた時代には家庭が引き受けていた領域を、核家族化や、旧来の「家族」の崩壊にともなってアウトソーシングしたものといえる。こうした背景から、介護事業に対する「家族でもやろうと思えばできるが、それをあえて他人にやってもらっているだけ(いわば『家事代行』の延長であって、専門的な技術ではない)」という認識はいまだに根強い。

「需要がきわめて高く(今後ますます高まることが明白であり)現時点では圧倒的に供給が少ないのにもかかわらず、賃金(価値)が低く抑制されている」業種の現状を、ネットスラングでは「低賃金カルテル」と呼ぶ。

もちろん、介護が本当に「だれでもできる仕事」であるとは思わないし、実際には専門的技能や知識が求められる業種である。しかし、労働の価値とは需要と供給だけでなく、ある種の「共同幻想」によって作り出されるものでもあるので、「重要ではあるが、しかしだれでもできる仕事とみなされるために尊重はされず、だれもやりがたらない。ゆえに、そんな仕事をあえてやっているような人には(きっと能力が低いのだろうから)多くの対価を支払う必要はない」という無言のコンセンサスが成立している業種は、事実存在するだろうし、介護職はそのひとつといえるだろう。

「介護への転籍」と聞いて懲罰的な文脈を感じた人びとは、まさにこのような考えを内面化しているのだ。それはまさしく「職業差別的」な思考ではあるが、しかし表立って「差別」とは認識されていない。