誰もが歴史を楽しむために必要なこと

<日本史のツボ>のツボ 第3回その①
本郷 和人 プロフィール

①を遂行することは、個人が持っているときは難しいですが、博物館なり資料館なり、公的な機関に所蔵されているのならば可能でしょう。ですが②を行うにはそれなりの研鑽が必要となります。③と④も同じです。古文書学という学問をある程度、修得しなくてはなりません。

 

習字を長く学んでいる人は漢字にせよ仮名にせよ、「字のかたち」に鋭敏な感覚を養っています。だからくずし字を活字に置き換えることができるのです。けれども、そうした人は実は多くありません。

古文書学を学ぶ人のほとんどは、「中世文書が頻用する文章とか文体をしっかり頭に入れる」。それを基礎として、ここがこういう言い回しなのだから、次にはこの言葉が使われるはずだな、と読み進めていきます。

たとえば、「うーん,[   ]追討也、か。ぐちゃぐちゃっと書いてあって判別が難しいけれど、まあ、この2文字は[可被]だろう。だからここは、[可被]追討也、に違いない」というように。

この「中世文書が頻用する文章とか文体をしっかり頭に入れる」ができると、②への感覚が準備されます。こんな言葉使いはしないな、この文章はおかしいな、とするとこの文書はニセモノだろうな、というふうに。つまりは、センスに恵まれた一握りの例外を除くと、文書を読むという作業には地道な経験の蓄積が必要だ、時間がかかるのだ、ということです。

一般人が「飛行機の仕組みを知る」必要はない

それが実情であるとすれば、一般の方が「歴史を楽しむ」ために闇雲に実証にこだわっても、しょうがないのではありますまいか

ある程度のところは歴史研究者に任せる、という姿勢が現実的であり、推奨されざるを得ないのです。

私たちはいつも、テレビを見て楽しみます。でも映像が配信される原理を十分に理解しているわけではありません。飛行機に乗って空の旅を楽しみます。といって鉄の塊が空に浮くまでのプロセスを説明できる人は少数でしょう。それと同じなのです。歴史を楽しむには、専門家は話は別ですが、一般の方は実証に深入りする必要は、ありません。

ここで間違ってほしくないのですが、ぼくは実証性に意味がない、無視してもかまわないというつもりは微塵もないのです。

実証は大切だし、裏を取って発言する、主張するというのは何ごとにつけ、大人の姿勢として基本です。裏取りなしの、いい加減な歴史認識を広めることは、確実に社会に害となります。

たとえば楠木正成の千早城攻防戦の強調を例に、工夫と忠義の精神があれば少数をしてよく大軍を疲弊せしめ得る、と吹聴したことは,太平洋戦争への道を開く確実な一助となりました。

では実証でないならば、一般の方は何を頼りに歴史を楽しめばよいのでしょうか

ぼくはそれは、論理性、論理の整合性だと考えています。