誰もが歴史を楽しむために必要なこと

<日本史のツボ>のツボ 第3回その①
日本は世界で一番、質量共に豊かな文献資料が残っている国である。そのためか、実証史学ということにうるさい。史料に基づく。史料で裏取りをしてものを言う。こうした方法を身につけることが実証史学であるし、大学で日本史を専攻すると、ゼミナールにおいては、こういう態度を体得するように教育される。それは間違いではないのだが、面倒な問題もまた孕んでいる。今回はその「実証史学と歴史の楽しみ方」のお話である。

信長を殺したのは誰だったのか?

2017年9月、岐阜県美濃加茂市の美濃加茂市民ミュージアムが所蔵する明智光秀の書状が、天正10(1582)年6月12日に光秀が紀伊国雑賀の土橋重治にあてた手紙の原本であると確認されました。

注目すべきはその内容で、これを読む限りは光秀は室町幕府の再興を図っていたことになり、調査に当たった三重大学の藤田達生教授は「光秀が自ら天下人になろうとした単独謀反説は成立しない」と述べています。

 

また、「(信長に追放された)天正元(1573)年をもって室町幕府滅亡とされます(本郷の注:確かに教科書的にはこの年に室町幕府滅亡と教える)が、書状は幕府の権威が健在だった事実を突きつけている」とも話すのです。

大阪城天守閣の北川央館長も「戦国時代に入ると、足利将軍が京都を追われることはよくあった(本郷の注:12代足利義晴や13代足利義輝は京都を攻められ、しばしば近江の朽木谷や安土の桑実寺などに退避していた)。本能寺の変まで、義昭、信長の2つの公儀が併存していたのは確かだ」と同意されます。

これに対し、天理大の天野忠幸准教授は、「光秀は義昭に仕えた時期もあり、義昭を戴く政権をつくることに(本郷の補足:自己の生き残りの)最後の希望をかけたのだろう(本郷注:光秀はもっとも頼みとしていた細川藤孝に支持してもらえず、部下である筒井順慶も陣営に馳せ参じてこない、と苦境に立たされていた)。ただ、義昭が変の黒幕だったとまでは言えないのではないか」と疑問を投げかけます。

また本能寺の変に関する著書がある歴史学者、藤本正行氏も「義昭が光秀と連絡を取るために重治を使う必要があったことを示す書状でしかなく、光秀の孤立無援を印象づけている。『義昭黒幕説』など成り立たない」と否定しています(2017年9月12日の産経新聞より)。

来年の大河ドラマに決定しているので、この書状は何度も言及されることになるでしょう。藤田先生は光秀と義昭の緊密な連携を示す文書として、先生が以前から説かれている「本能寺の変、足利義昭黒幕説」の主要な証拠と捉えています。

天野先生は光秀が義昭を戴こうとしていると認めつつ、では本能寺の変の黒幕が義昭かというと、この書状だけではそこまでは言えない、とされます。藤本先生はこの書状の価値をさほど重しとはせず、光秀が孤立していることが読み取れるし、義昭黒幕説は全く成立しない、と解釈しています。

推理小説のような「実証史学」

さて、では読者の皆さんはどうお考えになるでしょうか?

ここで実証という作業にこだわりぬくならば、

 ①光秀書状の写真をまずは入手しなくてはなりません。

そのうえで、

 ②これは本物か、ニセモノか。史料である文書の真贋を確認する必要があります。

それで本物であると見極められたら、ついで、

 ③くずし字を活字に翻刻する必要があります。

その作業を注意深くなし終えたら、

 ④活字文の意味を取ることへと進みます。つまりは戦国文書の現代語訳です。

これらがきちんとできてこその「実証史学」といえるでしょう。