羽生善治と学ぶ、将棋と武士道の結びつき

『教養としての将棋』本文の一部を特別公開
梅原 猛, 羽生 善治 プロフィール

チェスは性悪説、将棋は性善説?

羽生 日本人は殺すことに罪の意識をより強く感じてきたとすれば、それはなぜなんでしょう。

梅原 日本が島国だからということはあるでしょうね。西洋にしても中国にしても、国どうしが地続きで、たえず異国、異民族に侵略される脅威に直面してきました。言語も文化も違う敵国の人間を、なかなか信用はできません。だから戦争に勝った側は、禍根を残さないためにと、降伏させて味方につけるより殺すことになってしまう。

それに対し日本人は、明治になって海外へ戦争に出かけるようになるまで、戦いといえばもっぱら内戦です。いくら国内で争ったところで、言葉も文化も同じ、顔も同じ。極端な話、誰かを殺せば必ず自分の先祖につながってくる。敵といえども大量に殺すのは寝覚めが悪いですね。それで、できるだけ殺す数を少なくするように工夫もするわけです。これは日本人の知恵ともいえますね。

 

羽生 いまのお話を伺っていて思い出したんですが、チェスの世界では、これをやってはいけない、これもだめと、いろいろなことが、将棋の世界よりもはるかに細かくルールで禁じられているんです。基本的に人間を信用していないというか(笑)。逆にいえば、禁じられていないことならどんな手段でも使います。

たとえば、休み時間に仲間と研究することは禁じられていないので、そうするのが当たり前になっています。対照的に将棋の世界には伝統的に、ルールなどなくてもそんなことをする人間はいないだろうという、相手を信用する考え方があるんですね。いわばチェスは性悪説、将棋は性善説にのっとっているといえるかもしれません。

チェスの「引き分け」に隠された西洋思想

梅原 なるほど。そういえば、私は子どものころ、「待ち駒は卑怯だからやってはいけない」と教えられたものです。「待ち駒」というのは相手の王様の逃げ道に、待ち伏せの駒を置くことですが、これは反則でもなんでもないですよね。

羽生 もちろん(笑)。反則どころか、相手の玉を逃がさないための重要なテクニックです。

梅原 禁じられていなくても卑怯なことはやってはいけないという考え方が将棋にあるのに対し、チェスはルール違反でさえなければ何でもやるわけですね。

羽生 そのほか、チェスならではの面白いルールに「引き分け提案」というものがあります。これは、勝負がつかずに引き分けになりそうだなと思ったときに、相手に引き分けにしようと提案して、相手が同意すれば引き分けになるというルールです。チェスは将棋と違ってよく引き分けが発生するんです。

ところが、これを駆け引きに利用して、形勢が悪いと思っているほうが、わざと引き分けを提案することがあるんです。相手は当然断るわけですが、断ったからには勝たなくては、というプレッシャーがかかることになる。その結果、ミスが出やすくなることを狙う作戦です。これなども将棋では考えにくいシビアな戦い方ですね。

梅原 基本的に国内だけで戦ってきた日本では、将棋のルールにも「そこまで決めなくても」という同じ文化に生きる者どうしの共通理解があるのですね。ところが西洋は異文化の衝突の歴史なので、チェスも生き馬の目を抜くような戦いにならざるをえない。

戦いのなかにも礼節を見出す「武士道」という考え方も、日本が内戦の国だったからこそ生まれたものかもしれません。とすれば、将棋の持ち駒というルールと武士道は、一見相反するようですが、いずれもきわめて日本的なものという点で共通しているといえます。日本人が変わってきたのはやはり、明治になって、外国と戦争するようになってからでしょうね。