「海軍の墜落王」は、レイテ島激戦の中「自分不在の結婚式」を挙げた

4度撃墜されても戦い続けた男の記憶

ひとたび戦争となれば、戦場に駆り出されるのは、20歳前後の若者たちである。前の大戦中は昭和初期、一家の跡取りを残すために少し強引にでも結婚を急かされることもあった。

なんと花婿本人は最前線で奮戦している最中に、その写真を花婿代わりに執り行われた結婚式があったという。

 

兄弟の中の「戦死要員」として予科練を志願

ここに1枚の結婚式写真がある。

昭和19(1944)年12月16日、平安神宮での挙式

アルバムには〈昭和19年12月16日、『平安神宮にて妻・道子(19歳)と挙式』〉と記されているが、よく見ると、新郎が座る席には写真が置いてある。

ちょうどこの頃、新郎である大西貞明さん(当時海軍飛行兵曹長・22歳)は、零式観測機(零観/複葉2人乗りの水上観測機)に搭乗、フィリピン上空で、押し寄せる米軍機と血みどろの戦いを繰り広げていたのだ。

大西貞明さん
零式観測機。大戦全期間を通じ活躍した複葉複座の水上機

結婚式の同日同時刻、大西さんは敵戦闘機・グラマンF6Fに向かって、

「いま、俺の結婚式の最中である。グラマンよ、今日だけは俺を撃つな!」

と叫びながら戦っていたのだという。

海軍に騙された

大西さんは、昭和13(1938)年10月1日、海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)三期生として、神奈川県の横須賀海軍航空隊に入隊した。

「父が京都府議会議長や商工会議所の副会頭をしていて、身内から誰も戦死者が出ないと世間に顔向けができないからと、京都府立桃山中学校(現・桃山高校)5年1学期を修了したとき、兄弟のなかの『戦死要員』として甲飛を志願したんです」

と、大西さん。

「ところが、入ってみると、思っていたのと全然違う。海軍に騙されたと思いました」

「海軍に騙された」、ことの顛末はこうである。

海軍では、発達いちじるしい航空機の搭乗員を養成するため、「予科練習生」(予科練)と名づけた少年航空兵制度を導入、昭和5(1930)年、その一期生が入隊した。受験資格は「高等小学校卒業程度以上の学力を有する者」とされたが、その人気はすさまじく、一期生の応募倍率は74倍におよび、海軍士官を養成する海軍兵学校の受験資格をもつ中学4年修了以上の志願者も多かった。

予科練習生は、一般の志願兵よりも進級が早く、飛行練習生を経て短期間で下士官に進級できたが、昭和11(1936)年1月、日本が各国の海軍軍備の枠組みを定めたロンドン海軍軍縮条約を脱退、同年末、ワシントン海軍軍縮条約が失効、無条約時代に突入すると、海軍はより急速な航空軍備拡充のため、新たに「甲種飛行予科練習制度」を発足させた。

「甲飛」の受験資格は、当初、中学4年1学期修了程度とし、従来の予科練よりもさらに進級を早め、短期間で下士官、准士官を経て特務士官(兵から累進した士官)となる。しかし、ここで思わぬ齟齬が生じた。

新しい制度を「甲種」と名づけたことで、より歴史の古い従来の予科練は「乙種飛行予科練習生(乙飛)」と、格下ともとれる呼称になった。しかも、乙飛が3年がかりで進級する一等航空兵に、甲飛はわずか2ヵ月でなれる、という待遇の差も、「本家本元」としての乙飛のプライドをいたく傷つけたのだ。このとき生じた甲飛、乙飛の軋轢は、戦後も半世紀以上にわたり、戦友会の運営にまで悪影響を与え続けた。