『わた定』吉高由里子が必死で対峙した「仲間みんなで戦う」圧力

同クールのドラマと比べてわかったこと
堀井 憲一郎 プロフィール

指導者の趣味で「一体感」を求められる

チームで働くというのは、べつだんわが日本社会だけの特殊な形態ではない。世界中で、みんなチームを組んで働いている。

ただ、どうもわが社会の特殊性は、そのチームへの帰属を、仕事を越えて、強く求めてくるところにあるようだ。チームで「働く」と言わず、チームで「戦う」という表現を好んで使うことも多い。

そりゃもちろんオランダでもスペインでもカンボジアでもコートジボワールでも、「過酷な状況」ではチームの一体感を強く求められることはあるだろう。緊急時の警察なり、戦闘時の軍隊なり、もしくは危険な探索を行っている特殊なチームなりは、個人の事情を越えて、チームとして一体になることを強く求められる。あくまで特殊な状況で、チームが一体化してないと生命に関わりそうな場合は、ということであるが。

わが社会ではそういう緊急性がなくとも、指導者の趣味や気分で「一体性」を求められることがある。ゆるいタスクでも戦場感を持ちたいというのは、あきらかに責任者の趣味趣向である。

 

もちろん責任者にも事情はあるだろう。ドラマではユースケ・サンタマリアがその役を演じていて存在感があった。ああいう役のユースケ・サンタマリアにはとても説得力がある。彼もまた悪意を持って行動していたわけではなく、それが「チームでの仕事」が個人を侵食していく深刻さを示していた。

チーム仕事のむずかしさは、責任者はいるものの、責任の所在に関する気分が、やや曖昧なところにある。責任者が、私が責任を取ると言っておきながら、じつはあいつのミスが原因だった、と言ってまわる、ということは頻繁に起こる。そうなると責任がどこにあるのかよくわからなくなる。「空気」の問題だった、ということになりかねない。

医師とチームプレイ

いっぽう、もっと一人の責任の大きな仕事もある。

このクールのドラマでいえば、たとえば『ラジエーションハウス』の病院関係者たちである。「医療技師」のドラマだった。放射線技師たちの仕事を中心に物語が進行していった。

医者や医療技師は、ウェブ制作チームなどのようなチーム作業を行っていない。

やや個人プレイの側面が強い(あくまで比較の問題であるが)。