偉大なる企業家・小林一三が語る創業と人生の秘話

【5分de名著】小林一三『逸翁自叙伝』①
講談社学術文庫 プロフィール

私の夢であった証券会社が、もし出来たとせば、私はおそらく平賀氏の力を借りたであろうと思う、また借りるべく内々交渉を遂げ得たのである。そして私達は、天王寺烏ケ辻町の藤井別荘の邸内に、同一庭園内に住居するに至ったのである。

 

藤井旅館に二週間ばかり滞在している間に、私はその藤井旅館の主人であったか、特別の関係先であったか、忘れたが、どちらにしても私はこの別荘を借りることにした。二千坪もある広い庭園で、中央に池がある、東の一隅にある平家建の一棟が私の借家である。中央の広大なる庄屋めいた総二階の本屋に、平賀さんが大勢の御家族をつれて引越して来た。平賀さんの入口は西の大門から、私の家は路地からである。

この付近にはまだ電灯がない。ランプを買って灯すほど、不便な町はずれであった。しかし交通は、一町ばかり東に行けば城東線桃谷駅があり、梅田にも、天王寺、湊町方面にもゆける、三十分に一回発車の程度であったが便利であった。

桃谷駅にももちろん電灯はない。そのうちに、半歳もたたない間に電灯会社に談判して、電柱代、架線代等、あの付近の住民と相談して寄付金を募集し、それによって点灯し得たのであった。

日露バブル後の不景気で「悲観材料に包囲」される

毎朝、定刻の列車に顔を合わせる人達に、大阪商船の加福君、住友銀行の八代君などがあったことを記憶している。

私は借家に落着くことは出来たが仕事がない。外国貿易商であった島定治郎君は、自分の店に来て遊びながら手伝ってはいかがというので、島商店にテーブルを置いてもらったが、仕事は何にもない。「兄の鉱山に遊びに行かないか」と誘われて、徳島に一度遊びに行ったこともあるが、結局きまった仕事がない浪人である。

平賀さんもまた、三井を辞職するまではすこぶる好調であったが、辞職した当時からいわゆる戦後熱狂時代の反動期に当面して、計画中であったいろいろの事業が一頓挫し、一番面倒臭い築港関係のセメント製造という会社を、引受けざるを得ないことになったのである。そして殿様のように尊敬された三井銀行の支店長は、桜セメント株式会社社長として、築港への工場へ通い、奮闘せざるを得ない立場にあったのである。