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偉大なる企業家・小林一三が語る創業と人生の秘話

【5分de名著】小林一三『逸翁自叙伝』①
姉妹シリーズ「講談社学術文庫」から新書ファンにお届けする、好評「名著のチラ読み」企画第3弾!今回は、阪急電鉄創業者、宝塚少女歌劇の生みの親として知られる、日本史上最強の経営者・小林一三が自らの足跡を語った『逸翁自叙伝』を抜粋公開します。

一発逆転を賭けて転職したが、株の暴落で「甘い夢」破れる

(前章までのあらすじ:大学を出て三井銀行に入った小林だったが、仕事ぶりを評価されず問題社員として放蕩三昧の日々を過ごしていた。そこに、かつての上司から大阪での「北浜証券」新設話に加わる誘いが舞い込む。転身を決意した小林は、銀行を辞めて妻子ともども大阪へと移るが……)

第七章 大阪町人として

1.株式惨落にて浪人する

長男は数え年の七歳、長女は五歳、次男は四歳、女中もつれず、三人の子供をつれての私達五人の一家族は、いとも心細く大阪に着いたその日が、日露戦後熱狂的に連日連月暴騰した株式市場に、襲来した反動暴落の序幕の日であったのである。

 

私の甘い夢は、商人宿の一室に、三児をかかえた世話女房疲れの細君から、借家検分の報告を受けて、一日も早くと安住のねぐらをさがしつつあったけれど、実は証券会社設立どころの話ではない。

買収すべく計画しておった島徳株式店は、買方客筋の有力店であっただけに、連日の暴落に追いつめられて、その整理に死物狂いの情勢であったから、またその大波瀾の中心地点にある北浜銀行は、私などの話に取合う余裕のあろうはずもなく、岩下氏、小塚氏をはじめ、島君兄弟などに面会する機会も与えられず、一日、二日、三日、四日と、茫然自失するのみであった。

日露戦後熱狂の大相場に油を注いだ一例は、明治三十九[一九〇六]年六月、政府は資本金二億円の南満州鉄道株式会社を創立し、その年の冬、株式九万九千株の公募に対して応募総額一億六百七十三万余株に上り、公募数の約千七十倍に達して、その結果、一株五円の払込領収書が四十円から九十円の取引が行われた。

新しく創立された大阪付近の郊外電車は京阪電鉄のプレミアム九十何円、京阪神急行の前身であった箕面有馬電鉄のごときも二十円近くまで買進まれたのである。代表株大阪取引所株は三十九年五月高値百五十一円から漸次上騰し、十二月には四百二十一円になった。この最高値は翌四十年一月十九日七百七十四円を呼んだのである。

しかしこれを絶頂として、
 一月二十一日 六百六十円十銭
 二十二日   六百二十円
 二十四日   六百十九円九十銭
 二十五日   五百四十七円
 二十七日   四百八十円十銭
 三十一日   四百十九円九十銭
こうして二月初旬には九十二円に惨落したのである。

成金が歩に返り、にわか大名がもとの木阿弥に没落しつつある時、私の夢にえがいて勇んで乗り出した証券会社は、設立も不可能になって、島徳株式店は、整理とその善後策によって、越ヶ谷商店と改名し、依然として株式仲買業を継続することになったのである。