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阪急電鉄創業者・小林一三が語る奔放な人生

【5分de名著】小林一三『逸翁自叙伝』②
「講談社学術文庫」からお届けする「名著のチラ読み」企画、今回引き続き、稀代の経営者・小林一三『逸翁自叙伝』をご覧ください。証券会社設立話にのって大阪にやってきたものの、折からの不景気のあおりで目論見が外れた小林。それでも家を買う誘いにここを動かされそうになるなどしているうち、さらなる転機が訪れようとしていた。

三井物産が持て余した鉄道会社の経営話

私は二、三度宗像君の宅に遊びに行った。そして、あちら、こちら、土地を見にゆく、高台の方に三、四百坪の土地に二階建の家屋付き、一万円出せば相当の屋敷が買えるという話もあったが、平賀さんの宅には子供衆が六、七人もあり、宅の子供達と賑かに遊んでいるのであるから、烏ケ辻を離れるのは心淋しい、なかなか決心がつかない。

 

そのうちに寒い二月もすぎ、三月もやや春めいて来た時に、北浜銀行から、岩下さんと島徳蔵君と、話があるから私に出て来いというのである。

阪鶴鉄道会社の大株主たる三井物産会社を代表している取締役飯田義一、監査役野田卯太郎の両氏は、来る三月末日の決算後に、飯田氏は辞職し、その後任には監査役の野田氏、野田氏のあとには小林をときまったから、当分阪鶴鉄道の仕事を手伝ってやってくれ、と言うのである。

どうして三井物産会社が大株主になったかというと、香野庫治という砂糖商人が砂糖の輸入に失敗し、所有の阪鶴株を三井物産に渡したからである。

これより先、明治三十九年三月、阪鶴鉄道会社は国有法によって政府に買収されることになったので、同社の重役は、大阪梅田から箕面、宝塚、宝塚から西宮間に、箕面有馬電気軌道株式会社(資本金五百五十万円)という電車会社設立を計画して、三月十日認可申請、十二月二十二日出願許可、十二月二十三日発起人会を開いたのである。

あたかもこの時は日露戦役における熱狂時代であったから、この会社の株式のごときも、株式割当未定であるにかかわらず、権利株の高値は二十円に達したので、その割当が手間取って、ようやく四十年一月十九日一般公募を見合せて阪鶴鉄道株主その他に対し、割当株を確定し、その株式引受証拠金一株二円五十銭の払込を一月二十二日限りとし、創立事務所を市内東区大川町魚喜楼に移したのである。

この四十年一月十九日という日は、北浜市場に反動開幕の拍子木が鳴響いた第一日であって、株式暴落の荒波が、まさに押寄せ来たらんとする時であった。ちょうどこの日に、私は大阪町人となるべく移り来ったのである。まさに奇縁というべしである。

阪鶴鉄道会社の重役達は、自分達の発起した電車会社の権利株高値の夢に低迷し、割当株の問題でとかく評議が長引くのみ、このままではいけないと言うので、大株主三井物産会社は、この電車会社設立促進の意味から阪鶴鉄道に入社せしめ、無職浪人の私がせっかく大阪へ引張り出され、仕事のないのは可哀そうだという御同情によって監査役に新任されたのである。

初めは単に監査役として就任したのであったが、やがて阪鶴鉄道は国有になって解散決議、それから後は監査役清算人として、常勤のごとく出社することになったのである。