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稀代のアイデア経営者・小林一三波乱の人生を語る

【5分de名著】小林一三『逸翁自叙伝』③
阪急電鉄創業者・小林一三が自らの反省を語り尽くした『逸翁自叙伝』「チラ読み」3回目は、いよいよ鉄道会社の経営に本格的に参画しはじめた小林が、一世一代の大バクチに打って出ます。これぞ、明治大阪のダイナミックな経営術!

大阪から池田まで歩きながら開発計画を夢想する

3.大胆なる契約書

鉄道国有が実行せられんとした時、近畿付近にはいくつもの電鉄が発起された。たまたま阪神電鉄の好成績に刺激されて京阪電車、神戸電車、兵庫電車並びに南海鉄道の電化計画等、いわゆる日露戦後における新事業の代表的企業として歓迎され、いずれもプレミアム付証拠金取引が行われておった時、箕面有馬電車も、雑魚のととまじり、花々しく出発したものであった。

 

しかし反動時代が来ると京都大阪間、神戸市内電車、神戸明石間、大阪奈良間というがごとき営業区間の計画線と異り、有馬温泉や箕面公園のごとき、貧弱なる沿線に電車を敷いたところが、とうてい見込なしという世論が強く、

結局十一万株の中で、五万四千余株の引受未了株を持つことになって、会社設立の不可能に当面し、発起人諸君は、その善後策について、いろいろ協議しているけれど、すでに使用した創立費二万何千円の金額をどうすればよいか、頭割で負担すべきか、それはいやだ、何かうまい工夫はないかというので、

創立委員長田艇吉君は、住友系の先輩に交渉した。一時はうまく話も纒りそうな形勢もあったが、日一日と経費がかかるし、解散するものとせば早い方がよい、と匙を投げる委員が多くなって、いよいよ解散の運命に沈落したものである。

阪鶴鉄道会社の本社は、現在の省線池田駅〔福知山線・川西池田駅〕の山手の丘上にあった。そこでいつも発起人会や、会社の重役会が開かれていたので、私は、そこに出席する機会に、大阪から池田まで、計画の線路敷を、二度ばかり歩いて往復した。その間に、沿道における住宅経営新案を考えて、こうやればきっとうまくゆくという企業計画を空想した。