納税額の低い人を「税金泥棒」と見なす社会は、どう克服されてきたか

私たちはこの達成をすぐに忘れてしまう
石川 敬史 プロフィール

お分りいただけるだろうか。国民国家とは、本質において、市民の最低限の幸福と社会支援を約束する福祉的(welfare)なものであり、それはアメリカ合衆国ですらその憲法の前文で認めているところである。国民国家とは、実力者たち(例えば貴族)の特権や、聖職者の教権(来世の賞罰を餌にした脅迫)に対して、人間が生まれながらにしてもつ権利を保全するための仕組みなのである。それ以外の国家形態は、国民に対する簒奪行為なのである。

人類の歴史には、様々な国家の形態が存在してきたのであり、国民国家というのは、ユーラシア大陸の片隅のヨーロッパで近代に誕生したものであるに過ぎない。しかしながら近代とは、無数の国家のモデルから、この国民国家を採用する営みであったことを忘れてはいけない。

我々は、部族国家も、教権国家も、中世の制度化された暴力支配も選ばなかったのである。

 

道徳原理の主催者としての人間

しかし、鋭敏な読者はすでにお気づきだろう。ジョン・ロックが人間に自然権を与えたという「神」は、キリスト教の神なのではないかと。この神を特殊キリスト教的なものから引き離し、より普遍的な「創造者」とすることを仮定したとしても、それはあくまで人間の創作に過ぎないのではないかと。

もし人間に権利を付与したそのような絶対者が存在しないのだとすれば、「自然権を持つ人間が、社会契約により国民国家を創設する」という話はすべて戯論なのではないかと。

これは、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で、イワン・カラマーゾフに語らせた問題である。「もし神が存在していないならば、人間の営みに価値などないのではないか」。啓蒙思想家は、すべての人間が「生命」・「自由」・「財産」という権利を有するというが、それは歴史的事実とは異なるし、それを保護するために国家が存在するという立論自体がおかしいのではないか。

しかし我々近代人は幸いなことに、イマヌエル・カントを得た。カントは、『純粋理性批判』によって、神を用いずとも人間が道徳原理の主催者になり得ることを明らかにしている。カントによれば、人間は理性的存在であるがゆえに、創造者と同等の立場を得ることができるのだという。

我々は『カラマーゾフの兄弟』で、腐臭を発する遺体を残して死んだゾシマ長老が、イワンを「不幸な人」と片づけていることに着目しなければならない。カントによって、人間は、物質的存在としては「葦のように」脆くとも、尊厳においては宇宙よりも偉大な存在であることを思い出すことができたのである。

こうしてロックが積み残した最後の課題が解決された。人間は理性によって社会契約を結ぶことができる。国民国家の国民に対する義務は、思想家の主張ではない、規範的なものである。そして、この規範こそが、現代において忘れられているものなのである。