「大阪」とは一体何だろうか…「空虚な中心」が生まれたその理由

大阪のアイデンティティ、その本質
畑中 章宏 プロフィール

自治都市「堺」をなくそうする愚行

さらに、近世までの摂津国は梅田をターミナルにする阪急・阪神にあたり、河内国は難波や上本町、阿部野橋から東や南に延びる近鉄沿線に相当し、和泉国は難波から南に向かう南海本線沿線に重なることも、大阪に対するアイデンティの希薄さの原因の一つだと考えられる。

歴史的にみると、「大坂」や「なにわ」よりも、自治都市「堺」の方が、オリジナリティとアイデンティティに富む町であった。

自治都市堺の繁栄を築いた旧・堺港(筆者撮影)

堺は古墳時代に、世界遺産への登録を勧告された「百舌鳥古墳群」が造営された地であり、室町時代中ごろには朱印船貿易の拠点として発展し、南蛮船の往来をみるようになった。

フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝播や鉄砲製造、更紗の技術の導入など南蛮文化が開花した堺は、市街の周囲を堀で囲み、会合衆による自治制がとられた。

廃藩置県の際、河内国と和泉国は一度は堺県になり、大和国も管轄していた。かつての誇るべき自治都市であるにもかかわらず、維新の都構想でも中心に据えられていない堺の方が大阪よりもオリジナリティが強いのである。

大阪のアイデンティティは“信仰”にあった

大阪市の都心部、南海電鉄難波駅前からJR大阪駅までを南北に貫いて、延長約4キロメートル、幅44メートルの「御堂筋」が通る。この御堂筋の名は、沿道にある「北御堂(本願寺津村別院)」と「南御堂(東本願寺難波別院)」から名づけられた。

御堂筋の名の由来になった「北御堂(本願寺津村別院)」(筆者撮影)

石山合戦の後、織田信長と和睦した真宗門徒らは、大坂を退去して、紀伊鷺の森、和泉貝塚を経て、1585年に大坂天満へ移る。しかしそれから6年後には京都の現在地に移った。

大坂の門徒たちはその後、「楼の岸」(現在の天満あたり。天満橋南詰以東)に集会所を設けたが、この集会所は町割改革により、「円江(つぶらえ)」「津村郷(つむらごう)」と呼ばれていた現在地に移転し、「津村御坊」と称した。

 

また、東本願寺(大谷派)の教如上人は、1592年に西成郡渡辺の地に一寺を建立し、1598年に難波の地に移転し、1605年には御堂が完成する。これが、現在の「南御堂」である。

南北両御堂とその門前には多くの門徒が集まり、「御堂さんの屋根が見え、鐘の音が聞こえる場所にのれんを張る」を合言葉にし、船場の町を形成して、商都大阪の礎を築いていった。

大阪にはほかにも、西方極楽浄土に入り口として貴賎の参詣者を集めた四天王寺、航海・交通商売繁盛の神としてまで、幅広いご利益で信仰を集める住吉大社も、古代難波以来の聖地がある。

大阪のアイデンティティを探すなら、こうした信仰の歴史に目を向けた方がよいのではないか。