「大阪」とは一体何だろうか…「空虚な中心」が生まれたその理由

大阪のアイデンティティ、その本質
畑中 章宏 プロフィール

空虚な中心「なにわ」の終焉

古代難波宮と難波津、中世石山本願寺の寺内町、近世大坂城下町としての商都、さらには近代商工業都市となった大阪市は、生活文化もそれらの文化の累積のうえに成り立っている。

蓮如が石山御坊を建立すると寺内町が形成され、織田信長と一向宗が衝突した石山合戦後には、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を建設した。城下町が整備され、政治の中心地になるとともに、商都の基盤が確立した。

大阪城は蓮如上人が開いた石山本願寺の跡地に建てられた(筆者撮影)

大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、江戸幕府は大坂を直轄地(天領)とし、大坂城を再建。また河川の改修や堀の開削をおこない、「八百八橋」と呼ばれる、橋と水路の町になった。河岸には蔵屋敷が並び、諸国の米や産物が集散されたことから、「天下の台所」とも呼ばれた。

こうした経済的な発展に伴い、浪華商人が育んだのが、井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の人形浄瑠璃に代表される上方の元禄文化である。

しかし、浪華商人のルーツは、豊臣時代の町屋の形成の際に誘致した堺商人と、江戸時代の初期に移住してきた京伏見商人、その後に進出してきた近江商人らの融合に遡ることができるのだ。

つまり、「浪華商人」自体はアイデンティティに乏しく、この時代にも“ターミナル”であることが、商業や文化・風習を育んだともいえるのである。

 

東京の「江戸っ子」に対して、大阪生まれ、大阪育ちのことを「浪速っ子」というが、近年「なにわ(浪速、浪華)」も「浪速っ子」も使用頻度が少なくなったのは、こうした歴史的要因によるのかもしれない。

地理学者の加藤政洋は『大阪―都市の記憶を掘り起こす』(ちくま新書)で、関東大震災後に関西に移住してきた谷崎潤一郎の船場の商家を描いた『細雪』を、大阪の詩人で、大阪の湾岸工業地帯を積極的に詩にした描いた小野十三郎が、「いまはもちろん、当時の大阪についてもほとんどなにごとも語らない無縁の文学」と切り捨てていたことを紹介する。

加藤はそして、「小野の『居住感覚』からすれば、それはぽっかりとあいた穴のように(ロラン・バルトの言葉を借りれば)『空虚な中心』でしかなかったと評するのだ。

私も加藤とは別にこれまでのような理由から、大阪の中央部は空虚な中心だったと考える。