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「大阪」とは一体何だろうか…「空虚な中心」が生まれたその理由

大阪のアイデンティティ、その本質

G20サミットという見せ場

6月28日と29日の2日間、「G20サミット」が大阪市住之江区の咲洲(さきしま)にある大阪国際見本市会場(インテックス大阪)で開催される。

大阪での開催について、大阪府知事・市長のもと、府・市の各部局や区役所などを中心に設立された「2019年G20大阪サミット関西推進協力協議会」は、その意義を次のように強調してきた。

ライフサイエンスやものづくりなど大阪・関西の強みを発信し、大阪経済のさらなる活性化や都市の魅力の向上を図る。大阪・関西の存在感を世界にアピールし、知名度・都市格を向上させて、2025日本万国博覧会の開催につなげる。地域経済の活性化など高い経済効果を期待する……といったものだ。

しかし、こうしたアピールは、大坂の都市としての魅力の乏しさや、存在感の薄さ、地域経済が疲弊していることの証しでもある。

そこでこの機会に、日本維新の会が画策する大阪都構想も含めて、西日本の中枢的地位を占めている「大阪」のアイデンティティや本質は何なのかを、改めて問い直してみたい。

 

「大大阪」への郷愁

大阪市の“歴史的”中心部が位置する上町台地は、葦原の広がる湿地に突き出した半島状の陸地で、「浪速(なみはや、なにわ)」、「難波(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪華(なにわ)」などと記されてきた。

水陸交通の要衝であり、飛鳥時代に大陸との交流がさかんになると、港である「難波津」がその門戸として繁栄した。

上町台地にはこのころ、日本最初の官寺・四天王寺が建立され、大化の改新後には、現在の大阪府とその周辺に摂津国・河内国・和泉国が成立した。

「大坂」という地名は、室町時代中期に「石山御坊」(のちの石山本願寺)を創建した浄土真宗の高僧・蓮如の「御文(おふみ)」(全国の門徒に送った手紙)にみられるのが最初で、江戸時代後期から「大阪」の字が用いられるようになり、明治以降、行政地名となった。

1871年の廃藩置県で「大坂三郷」(大坂城下における3つの町組。北組・南組・天満組)と摂津国東部は大阪府に、河内国と和泉国の2国は堺県となった。

その後、堺県は当時の奈良県を合併したが、81年に大阪府が堺県を合併し、87年には奈良県が分離独立して、ほぼ現在に近い府域となった。