もう一つ、俳諧、俳句は、非常に季節を重要視します。それはなぜかと言えば、ただ単に四季の彩りの中で生きているというだけではなく、自然というもの、桜の花、梅の花、あるいはレンゲ草、鳶でも鷹でも何でもいい、雲でもいい、そういうものが哲学的な認識上のものとして存在している、ということがあるのではないでしょうか。
浮遊するもの、流れるものとして、すべての事実が消えてしまうのではなくて、具体的に存在する。先ほどから問題にしております「令月」も、「風」も「和」も、単なる現象ではなく、一つの認識として存在するのだということです。
風は風として一つの哲学を持っている。風というものは流れ行くもの。流水も流れ行くもの、雲も流れ行くもの。人間の人生もまた流れて行くものであります。
そういうものを流れるという形でとらえて、かつ、それが抽象化しないで残り続けていくのだという。こういう哲学を私たちは祖先から大事に引き継いできたのではないかと思うのです。
麗しい月である、令の月である、そしてそこに和というものがあるのだという。風でったり月であったりするのですが、それが人間の精神の状態にも置き換えられていく。われわれ日本人の、認識のそういうプロセスというものがある。
ですから、まずこのように自然という哲学を認識することで、令和という新しい時代を迎えようとしているわれわれと、その令和の出典との関係が結ばれていくのだろうと思います。日本では一月を令月と言いましたが、単に春先の風景ということではなく、全体として自然を言っていて、その自然は一つの哲学として表現されているのだと考えるべきだと思います。
(令和元年五月四日 『富山県国際会議場』メインホールにて)