令和という元号の「大いなる疑問」に、あの国文学者・中西進が答えた

なぜ「序文」からの引用なのか…?
中西 進 プロフィール

これがぺットボトルであるとか、これがコップであるということは「観念」ではありません、実体です。物の存在そのものですね。しかしこれを、およそ器なるものなどと言うとこれは観念になって、わかりにくくなる。

観念というのは非常に難しいものだなあという気がいたします。その反対に、自然現象であれば、よほどわかりやすい。

私の大学の一年生のときに学んだ哲学が、ドイツの観念論哲学ではなくて、メルロ=ポンティとか、フッサールとか、フランス系の現象哲学であれば、私はもっと成績もよかったはずなんですけれども、ドイツ観念論との相性が悪かった(笑)。

 

空を行く雲のように

これは話が逸れたようですが、いま私は、あえて自然の、風が吹くことや、梅の花が咲くことや、こういうものが哲学ではないのかと考えるのです。

まずそこにある空を考えるとか、風を考えるとか、そういう、現象学と呼ばれるような哲学です。そういうもののほうに、日本の哲学は近いのではないか。ややこしく観念に置換する手続きをせず、自然そのものが、明らかな理を持っているという、それが、日本において、日本人の考える自然ではないのかという気がいたします。

自然は我々の表現の基本になっています。『万葉集』ですと自分の気持ちを述べるとき、たとえば「私はいまこんなに、空しい」というとき、「空を吹いている風のように空しい」と言うわけです。「あの大好きな恋人に振られて、空を飛んでいく雲のように私は、今どうしたらいいかわからない」と『万葉集』の歌にあります。振られて悲しいことを、雲みたいだと言ったりする。これは寄物陳思などと言いますが、そういうのが日本の和歌にあります。

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そう言わなければ客観性がないからですね。「私は悲しい」と言っても、どれぐらい悲しいのかわからない。「空を行く雲のように空しい」と言えばわかるのです。基本的なものを自然に託して、その上に感情を陳べるという表現形式を、日本人はずっととってまいりました。それは、自然というものがいかに我々にとって示唆深く、確固たる存在であるかということだと思います。