この道元の思想にあるのは、自然の変化というものが、単なる気候の変動によって訪れるということではなく、きちんとした秩序を持っているということです。しかも、最初は梅の花が咲く、その力によって変化が起こるのだという哲学。こんな驚くべきことが、『正法眼蔵』に書いてあります。
梅の花が初花であるということに私はこだわりまして、調べてみましたら、中国の本の中でも初花と書かれているものは、梅に決まっているんですね。桜を初花と言うことはありません。
そうしますといろいろなことが、思い浮かんできませんか。たとえば菅原道真の「東風吹かば匂い起こせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」という歌があります。東の風が吹く、つまり春になる。春になると梅の花が咲く。主である自分がいなくても忘れないで、東の風が吹いてきたらまず花は咲かせなさい、そしてその匂いを九州までよこしてくれと言うわけですね。
菅原道真がそんなことを言いましてもね、「梅の花の匂いが九州まで行くはずないじゃん」 などと言っていると、これは全然だめなんです(笑)。ちゃんと行くのです。東の風が吹いてくるとそうなるのであります。
道真の歌まで考えてみますと、自然というものは、やはり大きな哲学を持っている。哲学的な道理の中で営まれていると感じられないでしょうか。そういうものを見いだしたのは、道元ではありません。もっと広く行き渡った、普遍的な哲学として、自然が日本の風土に仕組まれているのです。
いまわたしは哲学という言葉を、あらゆる思弁、考えの基本という意味で言っております。 それを細分化すると物理学になったり、文学になったりします。大きな、明らかな学問である、哲学というのは、総合的な認識として、いまのような自然の中に仕組まれているということになろうかと思うのであります。
哲学などという言葉を言い出しますとかえっていけないかもしれません。私は大学の一年生の時に――私でも大学の一年の時があったんです(笑)――哲学が必修で、落とすと進級できないということになっていたんですね。その哲学の先生が、とても難しいことをおっしゃる。 難しくて難しくて、どうしてこんなに哲学は難しいんだろうと思っていたその先生が、ご承知の、山崎正一先生です。
私の無能を棚上げして抗弁を申しますと、やはり哲学が、「観念」、物の考え方自身を操る学問になると非常に難しくなる。