令和という元号の「大いなる疑問」に、あの国文学者・中西進が答えた

なぜ「序文」からの引用なのか…?
中西 進 プロフィール

私は、中国に一年間いたことがございます。朝、学生たちが自転車で行き来をして、すれ違う時に挨拶をします。我々だったらおはようとかごきげんようと言うところを、彼らは、「チーラマ」――「(ご飯)もう食べた?」と言うんです。

それを聞いて、わたしは、彼らは食べることがこんなに大事なことなのかと考えました。貧困のなかで飢えていて、ちゃんと食べられたか食べられないかを聞いているのではなく、「食べた?」という。当然のように「食を楽しんでいるね」ということが挨拶になっているのです。

そういうところでわれわれは、「いい気候になりましたね」というようなことを言うのですね。

私は今朝、新幹線でまいりましたけど、富山の本当にきれいな初夏の風景が広がっておりました。美しいと思いました。こういうのが日本の風土なんだなあと思いました。

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挨拶というものは、生きている人間同士が出会ったときに何を尋ね合うかということです。

そのときの言葉に集約されるのは生き方の一つの契約ともいえるもので、それが「食べた?」 となったり、「いい天気だね」ということになる。ですから、初春の令月に、風がこうだったということも、けっして中途半端な文脈のなかのものではない、非常に大事なところだというふうに私は考えます。

 

日本人にとって自然とは何か

さて、日本人と自然ということを、更に更に突き詰めていきますと、日本人にとって自然というものは哲学なのではないかという考えに至ります。

鎌倉時代のはじめに、道元という、曹洞宗を開いた禅僧がいました。いまの福井県の永平寺に長く住んで、京都と行き交いして生活しながら、彼の思想を書き綴った『正法眼蔵』という文章があります。非常に難解で、私も長いこと敬遠していたのでありますけれども、いつまでも敬遠していてはいけないと思って以前読み始めましたら、それはそれは面白い本でした。

その中に「梅花」という一節があります。そこには、冬の凍った氷が解けて季節が春になる、そうするとまず咲くのは梅の花であると書いてあります。そしてその梅の花の力によって、春夏秋冬の四季が順序よくやってくる。風が吹くのも、雨が降るのも、これ梅花力なり、と書いてある。この断言の凜々しさ、凛とした響きに、私は完全にやられました。

梅の花が咲くことによって四季が来る、そして風も吹く。風を吹かすのも梅の花だ、雨を降らすのも梅の花だと言うのです。