ジャニー喜多川みずからが語った「芸能史を変えた」数奇な人生

5時間インタビュー全文公開【後編】
7月9日、ジャニー喜多川氏の死が公表された。ここでは、その稀有な人物像を振り返るため、雑誌『VIEWS』1995年8月号に掲載された5時間にわたる貴重なインタビューを公開する。後編では、ジャニー氏が、アメリカで日本の芸能人と触れ合った子供時代の経験、韓国でのビジネス、事務所立ち上げ時の秘話など、自身の来歴を語る(肩書きは当時のもの、文中敬称略)。
                           【前編はこちら】

〈取材・文:宇井洋〉

韓国でのビジネス

1952年、朝鮮戦争末期、米軍兵として徴兵されたジャニー喜多川(ジャニーはアメリカ生まれの米国籍)は韓国へと渡った。そこで、彼が見たものは、どこまでも続くキャンプとりんご畑であった。民家の多くは壊され、わずかに残った家もガラスがすべて抜け落ちていた。アメリカから日本を経由してきた彼は戦後の日本の惨状に驚いたが、韓国はその比ではなかった。

ジャニーがもっとも心を痛めたのは、戦争によって親を失った孤児たちであった。米軍のキャンプには絶えず孤児が群がり、米兵たちが食べ残した残飯を奪い合っていた。しかし、韓国政府もその子供たちに多くのことをしてやる余裕がなかった。

「彼らが自活できる道はないのか」

ジャニーは考えた末、ひとつの小さな事業を思いついた。当時、米軍兵士の洗濯物はすべて韓国人のランドリーに出されていた。

「それを孤児たちに」

思いついたらすぐに行動する性格の彼は、さっそくキャンプの入り口に一軒家を建て、米兵たちの洗濯物を集めさせた。しかし、洗濯機など高価なものを買うお金はない。そこで、彼は固形のGIソープを仕入れ、PXからアイロンを2台借りて、その小屋に置いた。

このアイデアはおもしろいほど成功した。孤児たちは皆で洗濯物を持って川へ行き、石鹸で衣類を叩きながら洗い、乾かし、アイロンをかけた。孤児たちにとって、それは労働であるとともに遊びでもあった。

ジャニーは孤児たちがわずかでも収入を得て、自立の道が開かれたことがうれしかった。そして、何よりも少年たちに明るい笑顔が戻ってきたことが――。

 

姉と弟の二人三脚

ジャニーズ事務所を今日の成功に導いたのは、ジャニーズジュニアの存在と巧妙なデビュー戦略であった。そして、それらを発案し実行している中心人物が、社長のジャニー喜多川である。

より正確に言えば、ジャニーとその姉、メリー喜多川の二人である。ジャニーとメリーの役割分担は明確だ。将来のアイドルを見つけ、育て、スターの基礎作りをする、いわば制作担当が弟のジャニー。

一方、タレントのしつけ、会社経営など管理面での実務担当が姉のメリーである。メリーの経営手腕のほどは業界でも有名で、事務所の低迷期を乗り越えられたのも彼女がいたからと言われている。この絶妙のコンビネーションが、これまで多くのアイドルを生み出してきたのだ。