ジャニー喜多川氏「奇跡の5時間インタビュー」を全文公開する

彼はどう生き、何を考えたのか
現代ビジネス編集部

「救い」だった、たのきんトリオ

その日は朝から小雨が降る嫌な天気であった。ジャニーズ事務所の社員たちは、朝10時から始まるたのきんトリオの初のミニライブのため、会場のある六本木へと急いでいた。

たのきんトリオは'79年10月、「3年B組金八先生」の生徒役で芸能デビューして、すでに人気が出始めていた。ロケ先に集まる女の子たちの姿や、日に日に増えるファンレターの数からもそれは知ることができた。しかし、その人気を正確に実感していた社員は一人もいなかった。

近藤真彦〔PHOTO〕Gettyimages

そのことが、今日のライブの規模を決定した。会場はキャパ100人ほどのアトリエフォンテーヌを借り、告知は雑誌「セブンティーン」に打っただけ。チケットも当日券のみを用意した。すべてが、学園祭の延長のようなライブであった。

最初に異変に気が付いたのは、事務所の誰かは分からない。しかし、8時頃出勤してきた社員のすべてが、その異様な光景を見た。それは、一の橋の交差点付近にあったライブ会場を中心に、六本木駅方向、麻布十番方向など、あらゆる道に若い女の子たちが溢れていたのだ。

結局、ライブは中止された。列の始めさえ分からない集団を統率してライブを開催するのは、誰の目にも不可能であった。集まった女の子たちには、後日ライブをやり直すことを伝え、帰ってもらうしかなかった。

事務所の社員が集まった女の子たちの最後の一人を帰し終えたとき、すでに辺りはすっかり暗くなっていた。こうして、たのきんトリオの幻のファーストライブは終わった。'80年に爆発した、たのきん大ブームの幕開けである。

 

ジャニーズ事務所の暗黒期

今日、ジャニーズ事務所のタレントたちの活躍ぶりを目のあたりにしていると、その人気は不動のもののように思えてくる。しかし、ジャニーズ事務所にも暗黒期とも呼べる低迷期があった。

「郷ひろみは移籍しちゃうし、フォーリーブスは解散でしょう。川崎麻世は人気があったけど、歌が大ヒットしていたわけじゃないから。そうすると、この業界ははっきりしていて、売れない事務所には冷たくなるからね。ジャニーさんも麻雀ばかりやってたね(笑)。あの事務所はもう駄目じゃないか、とまで噂されていたから」と、当時を知るテレビ局のプロデューサーは話す。

郷ひろみ〔PHOTO〕Gettyimages

'75年郷ひろみ移籍、'77年フォーリーブス解散と、さらにニューミュージックの台頭という当時の音楽状況がジャニーズ事務所に、初めての試練を与えた。

「僕はそれを低迷だと思わないんです。たしかに麻雀してましたよ。ひろみの移籍もショックといえば、ショックでしたよ。人間の信頼がどこにあるのかって。マネージャーとしてのつながりの浅さって言うかね。でも、変な話なんだけど、ひろみが移籍する前に僕は十二指腸潰瘍で死ぬ間際になっちゃったんです。

彼をなんとかスターにしなければと神経を使いすぎて。それで、僕が入院している間に、移籍騒ぎが起きて。だから、もし彼が移籍していなかったら、退院したら再びミッションとしてガーッと働くわけでしょう。だから、逆に言うと、彼が移籍しなかったら、僕は死んでいたんじゃないかな」

ジャニー喜多川は当時をそう肯定的にとらえているが、厳しい状況に置かれていたことも事実である。

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