日本のリベラル勢力は、なぜ「友達」を作れないのか

「政治における友人」について
岡田 憲治 プロフィール

ここには科学的な「真理」は必要ない。絶対に間違わない「真理」は、人類が未到達の目標だからだ。必要なのは「政治的(社会的、あるいは民主的)」合理による判断である(それだけではないが)。

「不可視の、健康被害をもたらす分量や種類について予想も判定もできない有害ゴミを大量に生み出すようなことはもう終わりにしたい」という気持ちは、相当の人たちが共有している気持ちだ。愛する家族や友人たちの命と人生は、「どうしても失いたくないもの」なのだ。そこに根本価値の相違などあるはずもない。

 

護憲論者とどう「対話」するか

「9条護憲」の幟(のぼり)を立てて街頭で訴える人々の長期にわたる、そして真摯なる思想的営為、運動には敬意を禁じ得ない。彼らの「非戦の誓い」という信念を、大伯父が戦闘機パイロットとして戦死した私は共有している。死んだ母方の祖父は上官から軍靴で何度も顔をぶん殴られた。軍隊を憎むことに関しては、人後に落ちない私である。

〔PHOTO〕Gettyimages

しかし、私はいわゆる「護憲派」ではない。なぜだろうか。

日本国憲法9条によって「戦力ではないことにされている」日本の自衛隊は、国際社会では”force” として端的に認知されていて、それは当然国際法の法理と規範の枠の中にあるものとされている。

国際法上、「自衛以外の侵略行為」は禁じられているから、世界は日本の自衛隊を「国際社会の規範の枠内で統制されている(はずの)軍事組織」だとして、当然戦争犯罪に巻き込まれた兵員は、世界標準の軍事刑法によって裁かれると想定している

ところが実際のところ、日本は、世界トップ10に入る軍事組織を法によって制御するシステムを十分に整備できていない。なぜならば、「自衛隊は戦力ではないが、それでいて他国からの侵略に対して必要最小限の防衛は認められている」という、英語では翻訳不能な解釈がまかり通ってきたからだ。その国際人道法違反状態は、「たまたま」発覚されていない(ことになっているはず)だけである。

これでは、沖縄基地での米軍の蛮行や、その原因である日米地位協定の批判をする道義的な基盤が不在ではないか? あるいは日本とジブチの間の酷い地位協定は、人権を謳う日本国憲法の基本理念に背くもので、その原因は冷戦という史的桎梏の元に放置された9条の不十分さにあるのではないか? だから今や9条の規範力を強める改憲が必要ではないか――そうしたごく真っ当な疑問に「触れただけで」、護憲論者にはスイッチが入り、定番の答えが返ってくる。

9条があったからこそ、日本は軍拡もせず、他国を侵略もせず、平和を維持できたのだ、と。君は改憲して軍隊を持って、いつでも戦争をできる国にしたいのだな」と。