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日本のリベラル勢力は、なぜ「友達」を作れないのか

「政治における友人」について

そもそも「友人」ってなんだ?

新刊愚著『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)において、自分のようなリベラル・野党系支持者そして政治家は、自分たちの信じる「正しさ」や「思想」に寄りかかり、「世界を変えるために一人でも友人を作る」という「政治」を、きちんとやってこなかったのではないかと問うた。

それがリベラルの敗け続ける理由だと。

上梓後、多くの方々から取材を受けたが、異口同音に発せられる質問の一つが「友人とは?」という、いささかシンプルかつ基本的なものだった。どうやら政治を語る際の作法として「友人を作る」ところで、すでに立ち止まっているようなのである。そして、そこにリベラルのみならず、あまねくこの社会の政治に向かい合わんとする人々の心の縫い目を垣間見たのである。
 
愚著でも指摘した通り、私が言っている友人とは「政治の友人」である。肝胆相照らす友人でなくても良い。もちろんそうであればなお良いのだが、良き友を作るためには時間と体力が必要で、人生は短く儚いから、そうそうワガママは言えない。

私が言っている「政治の友人」とは、「どうしても守りたいが、一人では守り切れないものを共有しており、それゆえに協力することができる」友人である。

日々の政治を語る場でも、SNSでも、骨太のテーマについては評価が分かれる。脱原発、憲法問題(人権、同性婚、夫婦別姓、安全保障、etc.)、移民、租税などだ。時には感情的になって、売り言葉に買い言葉で反対者に安易なレッテル貼りをしてしまう。「何千年経っても、あいつらにはわからねぇんだよ」と、さほど話してもいないくせに即断する我々である

しかし、「どうしても守りたいもの」を共有できるか否かの確認を、「わからねぇ」「言っても無駄でしょ?」と諦めてしまっていいのだろうか?

 

たとえば、家族のあり方について

多様なる性愛や家族のあり方について、伝統やある種の生理的反応を根拠に、それを拒絶するような議論が散見される。その時、えてして多様性を重んずると自称するリベラル側の対応は、彼らの言う寛容さとは裏腹に、そうした拒絶に対しては「非寛容」であると取られがちだ。

ネットに落ちている「リベサヨまじカンベン。非寛容過ぎて引く」という類のつぶやきは、あながち奇異な反応とも思えない。ほとんどのリベラル系はこのイシューに関しては比較的穏やかだと思うのだが、「有無を言わせない感じ」を受け止める向きもあるわけだ。