嫁選びの真っ最中に、野間家二代目を襲った青天霹靂の禍いとは

大衆は神である(56)
魚住 昭 プロフィール

受診して即刻手術、退院したその足で挙式……

血便や嘔吐などの症状がひどくなり、恒が銀座の南胃腸病院に行ったのは、その年の10月のことだった。恒は胃潰瘍の疑いで即刻入院を言い渡され、開腹手術を受けた。

このとき清治は恒の入院・手術について箝口令を敷いている。町尻登喜子との挙式を前にした微妙な時期だっただけに、病状をめぐる憶測が飛び交うのを懸念したのだろう。

 

したがって、恒の正確な病状を知る者は講談社の社員にもほとんどいない。秘蔵資料にも詳しいデータは残っていない。ただ、恒が慕っていた増田真助(講談社の剣道師範)の証言によれば、手術したときはすでに遅く、「胃壁を(がん細胞に)全面侵され」ていたという。

もうひとり、恒と親交のあった剣道師範の白土留彦は、恒の入院の報を聞いて、清治に「どこの病院ですか」と聞いた。すると、「これは秘密です。先生だけなら言ってもいいが、他のものには絶対に言わないでください」と言われて、南胃腸病院を教えてもらった。

白土が見舞うと、恒は喜んだ。そのころはものを食べられるようになっていたので、外の料理を取り寄せて二人で食べた。白土が「(病院食以外を食べて)大丈夫か」ときくと、「大丈夫ですよ」と言った。とても元気で「看護婦と相撲をやっても負けない」と言っていたが、退院が近づいたころ直腸に大便がたまりだした。排泄ができなくて苦しいと恒は漏らした。

翌昭和13年2月1日、恒は南胃腸病院を退院し、その足で東京会館に赴いて登喜子と結婚式を挙げた。ところが、恒は退院3日目に倒れた。「結婚してから大いに元気をつけるようにというので支那料理をとって皆さんで召し上がった」(増田証言)後のことだった。

科学的・医学的な知識を軽視

医師は消化の悪いものを避けるよう指示していたはずだが、清治の一家にはそれを守ろうという意識が希薄だったらしい。逆に、栄養のある肉類などを食べれば食べるほど病気は良くなると思い込んでいたふしがある。温灸療院の“逆効果”療法と同種の考え方である。

清治はふだんからひどく医者を嫌った。彼はほとんど医者にかからなかったし、科学的・医学的な知識を軽視した。左衛や恒にも同じ傾向があった。前出の中里辰男がこう言っている。

〈これは恒さんの病気に関連してでもあるけれど、社長に一番欠けているところといえば、やはり“科学の力を信頼しない”というか、“精神力に信頼すること、あまりにも高く、深すぎた”ということ。精神力の半面に、さらに科学の力を高く評価すれば、ああいう不幸を未然に防ぐこともできたんではないか。あまりにも“病気は気を病むということである”ということで、“蓄膿症も剣道すれば治る”ような考え方に頼りすぎて、もう少し科学についての深い考え方が必要だったと思うんです。

そういう意味で報知の横断飛行など、もう少し科学について深い認識があれば、あんな小型飛行機でアリューシャン伝いに横断ができるなんてことは、計画もしなかったでしょう。あまりにも精神力を買いすぎて、科学についての信頼度が薄かったということも野間社長の一つの欠点といおうか、考えるべき点であったのではないかと思いますね〉

恒が挙式直後に倒れて3ヵ月後の5月、寅雄が米国から帰国した。寅雄の兄の清三が『新聞之新聞』(昭和15年3月1日付)に発表した手記によると、「恒の病(やまい)革(あらたま)るや伯父(清治)は急遽米国より(寅雄を)呼戻し、爾来伯父の心中には深く計画する所」があったようだという。

清三が示唆する清治の「計画」とは、恒に万一のことがあったら寅雄に講談社・報知新聞を継がせようということだろう。実際にそうだったかどうかは証拠がないのでわからない。が、恒の病状が深刻になるにつれ、寅雄の存在がクローズアップされていったのは間違いないだろう。