2019.07.10
# 日本史

「仁徳天皇陵古墳」という名前…実は問題だらけでした

古墳の名称からわかる考古学
松木 武彦 プロフィール

この建造物の本当の名前は?

宮内庁による現在の陵墓治定の原点となっているのは、記紀に書かれた歴代天皇の陵名である。「仁徳天皇陵古墳」が「百舌鳥耳原中陵」(『日本書紀』)と記されているように、当時の地名を冠する場合が多い。

 

記紀が書かれた8世紀初頭の時点で、古墳はすでに数百年前の「遺跡」となっていた。おそらく当時の伝承や記録(とくに『帝紀』)をもとに、「遺跡」となった実在の古墳を、伝えられ、一部はそのとき創り出された天皇の名に、改めて一つ一つ比定していく作業が行われたのであろう。

その記紀の記載に、他の皇族の墓なども加えて整備拡張したものが、平安時代の10世紀前半に成立した『延喜式』の中の「諸陵式」である。この時点で、すでにいくつもの誤謬や創作が生じていた可能性が高い。さきにみた「応神」「仁徳」「履中」の3天皇陵古墳の年代の逆転は、おそらくこの時点に起因するだろう。

その後、どの天皇や皇族の墓がどの古墳に当たるのかということは、律令制の解体や中世以降の混乱のなかで長く忘れられた。江戸時代の後半になって、尊王や公武合体の思想を背景に、実在の古墳に天皇・皇族名を比定する作業がふたたび行われ、それが明治政府に引き継がれたのであるが、ここでも錯誤は生じたと考えられる。

さきに述べた考古学の編年網から、6世紀前半の継体天皇の墓であることが確実な大阪府今城塚古墳ではなく、すぐ近くにある半世紀ほども古い大田茶臼山古墳が「継体天皇陵」に治定されてしまっているのは、この時点での錯誤の例である。宮内庁は、この錯誤を改める姿勢を示さない。

このような錯誤や創作と厳に対峙し、それを看破して真実の歴史を懸命に明らかにしようとしてきた多くの考古学研究者にとって、錯誤と創作の象徴的産物といえる「仁徳天皇陵古墳」という名称がこのたび是認され、社会や世界に広がることは、何とも空しく、情けなく、受け入れにくい事態ではある。

世界遺産登録のためという目的に限っていうならそれはやむを得ない着地点だったとはいえ、「仁徳天皇陵古墳」の名称の背後にある問題を白日にさらし、衆目の中でそれを検めることを通じて、真実の歴史を明らかにするという考古学の本義に立ちかえった努力を、絶え間なく続けていくほかはないだろう。

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