2019.07.10
# 日本史

「仁徳天皇陵古墳」という名前…実は問題だらけでした

古墳の名称からわかる考古学
松木 武彦 プロフィール

「仁徳天皇陵古墳」はいつ作られたのか

「仁徳天皇陵古墳」を例にとると、記紀の記述では仁徳天皇の先代(父親)は応神天皇で、次代(息子)が履中天皇で、<応神→仁徳→履中>の順に在位したことになっている。

ところが、現在の考古学の知見では、もっとも古く築かれたのが「履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳または百舌鳥陵山古墳または石津ヶ丘古墳)」、次が「応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)」、最後が「仁徳天皇陵古墳」。つまり<履中→応神→仁徳>となって、記紀の即位順とは合わない。

 

このようなことがなぜ考古学からわかるのだろうか。それは、古墳も含めた全考古遺物・遺構の「編年網」というものが確立しているからである。

古墳の墳丘の設計規格、埋納された各種の副葬品(青銅の鏡、鉄の武器や馬具、玉や石製品など)、立てられた埴輪、置かれた須恵器(窯で焼いた陶器)、それと一緒に出る土師器(野焼きの土器)など、100種類以上の遺物・遺構が少しずつスタイルや組み合わせを変えていく過程が、今では詳しくわかっている。

個々の遺物・遺構のスタイル変化の道筋をタテ筋、それらの組み合わせをヨコ筋とする網の目(編年網)ができているのである。編年網は朝鮮半島や中国にも広がっていて、そこの紀年資料(年号が示された遺物や遺構)を手掛かりにしたり、理化学的な年代測定をおこなったりして、網のところどころに、実際の数値年代(〇年前、または西暦〇年頃)が書き込まれたような状態になっている。

編年網によって古墳の年代がわかる(photo by iStock)

紀年資料がない古墳も、いちばん近くの数値年代から、網のタテ筋とヨコ筋とをうまくたどることによって、おおよその年代が割り出せるのである。この編年網は、新しい資料やデータでつねに検証され、詳細化され、補強され、アジア全体に拡張されているので、アマチュアの自信家がちょっと思いついてどこかを突き動かせるようなものではない。

この編年網にさきの3つの「天皇陵」を配してみると、墳丘の設計規格、立てられた埴輪、および(「仁徳天皇陵古墳」の場合は)置かれた須恵器のいずれもが、<履中→応神→仁徳>の順番に並ぶ。

さらに、「履中天皇陵古墳」は、同じヨコ筋に乗る須恵器が年輪年代法(樹木年輪の1年毎の幅などの変化パターンから伐採年を読み取る手法)によって西暦412年に切られたとわかった木材と同時に埋まっていた例から、5世紀前半でも古い時期に築かれた可能性が高い。

「仁徳天皇陵古墳」については、そこに置かれていたものよりも1世代ほど新しいスタイルの須恵器が、西暦471年に当たると思われる「辛亥年」の銘をもつ鉄刀が発見された埼玉県稲荷山古墳で出ていることから、5世紀中頃に築かれた公算が強い。2つの中間に置かれる「応神天皇陵古墳」は、5世紀前半でもやや新しい時期に築かれたと考えられる。

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