photo by iStock
# 日本史

「仁徳天皇陵古墳」という名前…実は問題だらけでした

古墳の名称からわかる考古学

謎だらけの「仁徳天皇陵」

5月14日未明、大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」をユネスコの世界文化遺産に登録するようイコモスより勧告された、とのニュースが日本列島を揺り起こした。大阪府下の別の古墳群を探索中だった私の携帯電話も、各報道機関からの問い合わせや緊急の番組出演依頼で鳴りっぱなしとなり、耳に電話を当てながら、心ここにあらずの古墳踏査となった。

 

「百舌鳥・古市古墳群」といっても、パッとイメージできる人は少数だろう。その名称じたい、大々的には歴史の教科書に出てこないのである。むしろ、その中で最大の前方後円墳「仁徳天皇陵」(あるいは「大山古墳」や「大仙陵古墳」)のほうが通り良いが、それすら教科書で覚えさせられた用語の記憶であって、四半世紀以上も前にいち早く世界遺産になった法隆寺(法隆寺地域の仏教建造物)や姫路城のごとく、その姿をすぐに心に浮かべるのは困難だ。

航空写真の鍵穴形を思い浮かべる人も多いだろうが、「仁徳天皇陵」が築かれた1500年以上前には、当然のことながら飛行機はおろか高い建物もないので、あのきれいな鍵穴形を実際に見た人は誰もいない。

しかも、表面に葺いた石で白く輝いていた築造当時の外見はまったく失われ、緑の森と化した今のようすは、表面の石や土が崩れ落ちた上に木々が繁った、なれの果ての姿なのである。

さらに、この鍵穴形の緑の森は、世界の人々はおろか、日本国民でさえ、古墳の研究者すら、自由に近づくことも、立ち入ることもできない。

「百舌鳥・古市古墳群」を構成する古墳の大部分は、明治時代以降、陵墓として宮内省(現在は宮内庁)の管轄下におかれ、皇室の先祖を祀る公的祭祀の対象として厳重に保護されてきたからだ。そのために学術的な解明が大きく制約され、「百舌鳥・古市古墳群」の実態は、まだ詳しくわからない点が多いのである。

「仁徳天皇陵古墳」という名称のひみつ

「百舌鳥・古市古墳群」ほど、ユネスコや当事国や地元だけでなく、研究者、宮内庁、右派や左派など、さまざまな立場や姿勢の人々が、それをめぐっておのおの主張をぶつけ合ってきた、しがらみだらけの遺産はあまり例がない。

このしがらみを乗り越えて、「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産にふさわしいことを認めさせるための説明が、地元の自治体、諸団体、研究者などからなる組織(百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議)を中心に練り上げられてきたのである。

すべてのしがらみを解き去る説明はもとより不可能だが、それでもできるだけ最大公約数的な解を導くため、さまざまな局面で着地点探索の努力が重ねられた。

その最たる例が、古墳群に属する陵墓の名称を、「○○古墳」という考古学や文化財行政での呼称に、「〇〇天皇陵」といった宮内庁の治定(政治的に定めること)による呼称をかぶせ、「仁徳天皇陵古墳」のように、2つの呼称を両立させる形にしたことである。

しかし、かなり多くの考古学研究者はこれを是とせず、陵墓以外の通常の古墳と同じように、所在する現在地名や、古くからの地元での呼び名に基づいた呼称にすべきだと主張する。

ちなみに「仁徳天皇陵古墳」の場合、現在地名によれば大山古墳、地元呼称によれば大仙陵古墳となる。この主張の前提には、「〇〇天皇陵古墳」が本当に「〇〇天皇」の墓かどうか、学術的には相当に疑わしいという認識がある。