西鉄の黄金期を支えた一匹狼「ショート・豊田泰光」を語ろう

玉造陽二×村山泰延×デーブ大久保
週刊現代 プロフィール

村山 練習でフリーバッティングのピッチャーを任されたとき、豊田さんの打球が膝に当たったことがあります。今のようにL字のネットを前に立てたりしないですから。「痛い! 膝が折れたばい」と思ったくらいすごい打球でした。ピッチャー返しが基本の人だから豊田さんに投げるのは嫌でした。

玉造 本塁打も毎年のように20本前後打った。当時はボールの質が悪くて飛ばないから、本塁打王でも20本台だった時代。長打力も兼ね備えていた。

村山 その豊田さんの打順は2番。今年、巨人の坂本勇人が打ったりしていますが、バントをしない「強打の2番」の先駆けと言っていい。

 

玉造 三原さんが「流線型打線」と名付けて、2番にそれまでの繋ぎ役ではなく強打者を置いた。1番が凡退しても、長打を打てる2番ならそこから得点ができる。しかも豊田さんは勝負勘が働くというか、ここ一番での強さが際立っていた。

巨人との日本シリーズ('56~'58年)でも打ちまくってたもんなあ('56年にはシリーズMVPを獲得)。

『週刊現代』より
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大久保 練習はよくされたんですか。

玉造 見えないところでやっていたみたいね。

大久保 やっぱりそうですか。僕らにも「試合で打てばいいんだから、練習なんて人に見せんな。よくコーチらにアピールするやつがいるけど、そんなこといんねぇんだ(いらない)」って言っていました。出身地の久慈郡大子町は訛りがすごいから、豊田さんはいつまでも茨城弁が抜けなかったですよね。

玉造 '56年には日本人のショートとしては初めて首位打者を獲得。でも実はこれには裏話がある。三冠王がかかっていたチームメイトの中西太さんと最後まで争っていたんだけど、最終試合は三原さんの意向で2人とも欠場。結局、前の試合まで僅差(5毛差)でリードしていた豊田さんがタイトル(3割2分5厘)を手にした。

あとになって三原さんにあのときの決断について聞いたことがあるの。すると「太には悪いが、豊田が首位打者を獲るチャンスはここしかないと思って説得した」と話していた。

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