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# 哲学・思想

なぜ「後悔の念」は、かくも崇高な感情であるのか

後悔と希望の社会学
先月、ジュンク堂書店池袋本店で開催された、大澤真幸さんの『社会学史』刊行記念トークショーをご紹介する後編! 「あのとき、ああしていれば……」という後悔の感情は、否定的で悲観的なものではなく、逆に他の可能性に対する希望を開く感情です――聴くものを驚かせ、納得させ、元気づける大澤社会学をどうぞ!

前篇はこちら⇒観音様を投げて遊んだ子供を叱った別当は、なぜ病に苦しんだのか?

巫女が別当に与えた影響

このお話は、現代の社会学者としても分析することができますが、今回は、フォークソシオロジストとしての巫女の話を念頭に置きながら、社会学的知についてのポイントを皆さんにお話しします。

 

先ほどの説話から、社会学的知の重要な性格がわかります。つまり、社会学的知あるいは社会学的ものの見方、社会学的想像力、その原型が巫女の話にあるわけです。

社会学は、人間やコミュニケーションのような、社会的な存在を記述することが目的です。社会的な存在のあり方がどうなっているかを記述するということが、社会学の最低限の条件です。

ここからが重要です。社会的な経験を記述する。しかし記述すると、記述された対象、社会的存在に何らかの影響を与えてしまう。これが社会学の重要なところ、面白いところだと思います。

先程の説話で言うと、巫女は、観音様は楽しんでいたということ、別当自身も本当は知っていたということを記述しました。だから、そのことで、別当は新しい知識を得ているわけではありません。先ほども言ったように、別当自身も無意識のうちには知っているからです。

この場合、記述の対象となるのは別当です。そして彼は影響を受けます。お詫びをしなきゃいけない、と行動に出るわけです。

この時、巫女は観音様にお詫びすべきだと言っているわけじゃない。しかし、観音様は怒っていると知ったことの自然な行動として、「観音様に謝らなきゃ」という行動になり、苦しんでいた病気から解放されるという構造なんです。

これが、記述することで、対象のあり方や存在に影響を与えるということです。

「マルクス主義は世界像ではない」

もう少し普通の社会学史に出てくる事例でお話をすると、ジャック・ラカンというフランスの、20世紀の精神分析の理論家、哲学者がいます。そのラカンが「マルクス主義は世界像ではない」と言いました。

これが何を言っているかを説明しながら、いま言ったことをもう少し現代風に言い直します。

どういうことかというと、マルクス主義はただの客観的な知識ではない、それ以上のものを含んでしまっていると言っているわけです。

実はこれは、先ほどの巫女の話の大規模バージョンです。マルクス主義からは、資本制社会の仕組みとか、史的唯物論的歴史観とか、階級闘争とか、いろんなことがわかったりする。それは世界の記述になります。

ただ、それ以上に、記述された対象、この場合はプロレタリアートですが、プロレタリアートが自分の歴史的使命を理解し、意識して彼らは革命の主体になっていくという影響を与えます。

 

つまり、マルクス主義によって世界についての記述をする。それによってプロレタリアートは、自分の歴史的主体的な意義を理解し、革命の主体となるので、マルクス主義は世界像に尽きるものではないんだということを言っているわけです。

この言葉の素晴らしいなと思うところは、『共産党宣言』のような、いかにも政治的なマニフェストよりも、『資本論』にメッセージを込めているところです。『資本論』は、ある意味では冷たい世界の記述です。しかし、それを読むと、ある種の解放感というか、政治的マニフェストを聞いたときよりももっと強い、人を動かすものがあるわけです。