「ポリティカル・コレクトネス」は言葉狩り? 花王の事例が問う論点

差別的かどうかを議論するよりも…
石田 健 プロフィール

知識人が真剣に議論すべき話題なのか

冒頭の問いかけに戻るならば、花王の対応は「言葉狩り」の結果ではないし、ポリティカル・コレクトネスがもたらす問題もそこにはない。しかしながら本件は、ポリティカル・コレクトネスの運用に問題があることも示唆している。もしわれわれがこうした問題にばかり拘泥してしまえば、より重要な政治的アジェンダや差別の構造自体が覆い隠されてしまうリスクがある。

ローティやハイトに共通するのは、わたしたちの社会は経済的不平等をはじめとした重要なアジェンダがあり、そうした問題を議論・解決するために有限たるリソースを注ぐべきだという見解だ。

彼らの見解は、ポリティカル・コレクトネスが興隆する時代において、論争的ではあるが十分に傾聴に値する。誤解を恐れずに言えば、「Be Whiteが差別的であるか」というのは、どうでも良い問題である。

それは白人至上主義がどうでも良いということでもなければ、差別がどうでも良いということでもなく、単純に「ある単語が差別的なイメージを喚起させるかどうか」という話題は、本当に知識人が真剣に議論すべき話題なのだろうか?という問いかけである。

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もちろんポストコロニアル理論やカルチュラル・スタディーズの諸研究がおこなってきたように、テクストや言説分析を通じて明らかになることは多いし、言語や用語を戦略的に変化させることで、差別を是正できることもあるだろう。

ここで言いたいことはそうした研究を毀損すべきだということではなく、それらに傾倒しすぎて重要なアジェンダを覆い隠される時に、わたしたちは警戒しなければならないということだ。

トランプ以降、左派がもっと経済を真剣に考えるべきだという論調は勢いを増してきたが、ローティに言わせれば左派は2つのことができない。もし左派が経済のことを真剣に考えるのであれば、ポリティカル・コレクトネスにまつわる議論を一旦脇においておく必要があるのかもしれない。

 

経済に限らず、日本が抱える政治的アジェンダは数多い。例えば、これから多くの移民を受け入れていく中で、ポリティカル・コレクトネスと深い関係を持った多文化主義という問題について、日本は考えていかざるを得ない。

外国から来た人々を日本というナショナリティにどのように統合していくのか?という問題を左派が真剣に考えているようには見えない。

日本の左派はしばしばナショナリズムに拒絶反応を持つが、多文化主義において重要なことは好むと好まざるとにかかわらず国家という枠組みのもとで人々を統合していくことだ。

こうした争点は明らかに、「Be Whiteが差別的であるか」を議論するよりも重要なのだ。