「ポリティカル・コレクトネス」は言葉狩り? 花王の事例が問う論点

差別的かどうかを議論するよりも…
石田 健 プロフィール

ポリティカル・コレクトネスの失敗

表層的な言説について批判が増加することは、ポリティカル・コレクトネスをより一層困難にする。そしてこれは、長きに渡って左派が直面してきた問題でもある。

現代アメリカを代表する哲学者のリチャード・ローティは、60年代以降の知識人が「お金」の問題から「侮辱」の問題に関心を移したことで、労働組合や福祉、雇用の問題に向き合うのではなく、「大学のカリキュラムに多文化主義が適用される」ことを目的とするようになったと指摘する。

ローティが「文化左翼」と呼ぶ知識人たちは、従来のマルクス主義者がおこなってきたように経済的に苦境に陥っている人々を代弁するのではなく、性的・人種的・民族的マイノリティの立場から見えない不正義を告発し、「政治的な正しさ」を広めることを自らの新たな使命とした。

文化左翼の登場によって、アメリカは以前よりも「はるかによいところ」になったものの、彼らは経済的不平等に目を向けることはなかった。そのことは阻害された人々に怒りをもたらし、政治的な正しさに対して反動を生じさせ、アメリカや世界にとって厄災となる政治的指導者を生み出すとローティは予想する。

この指摘はドナルド・トランプが当選した2016年に発せられたものではなく、いまから20年前の1998年に示されたものであることに驚かされる。現在の世界が陥っている状況に示唆的な慧眼だと言えるだろう。

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文化左翼への批判は、ローティに限ったものではない。アラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』から、現代であればジョナサン・ハイトのような論者に至るまで、60年代以降の左派が経済よりもアイデンティティ・ポリティクスに拘泥してしまったことを批判的に見る専門家は少なくない。

彼らの共通見解は、ポリティカル・コレクトネスは社会をより良くするものであり必要ではあるが、それが諸々の問題を解決してくれるわけではないということだ。

より突っ込んで言うならば、社会がそこに必要以上のリソースを使い、知識人が政治的な正しさのみに固執していては、控えめに言って不毛な事態に陥る。

 

花王の問題で考えるならば、たしかに「Be White」というキャッチフレーズは問題をはらんでいる。しかし重要なことは、そのキャッチフレーズが白人至上主義を連想させるか否かではなく、男性の家事参加や働き方改革を推進する社会を実現することである。

前述した高橋浩祐の論に対して、NPO法人POSSE代表の今野晴貴は「過労死、過労自殺、長時間に苦しむ労働者に、『言葉が適切ではない』という批判をする前に、やるべきことがあるのではないか?と思うからだ。端的にいって、この批判者は『どの立場』から、『何を目的』としてこういうことを言っているのだろう?」と述べているが、ポリティカル・コレクトネスに固執することの問題点を明晰に示している。

リスクがあったり誤解を招くような表現を避けるに越したことはないし、その問題に事後的に気づいたならば修正をすれば良いが、企業側が不必要に炎上を恐れたり、「誰かを不快にさせたから」という曖昧な理由で妥当性の低い批判に応答することは、社会に不毛な議論をもたらす。

その意味で、現代社会においてポリティカル・コレクトネスは失敗とも言える状況に陥っている。