「ポリティカル・コレクトネス」は言葉狩り? 花王の事例が問う論点

差別的かどうかを議論するよりも…
石田 健 プロフィール

黒人差別の歴史を理解することや原因や実態、その解決策を考えることは、膨大な時間と労力を要する。

すべての人々が問題を理解するための十分な時間が割けるわけではないからこそ、議論の内実は一旦置いておき、一律に「African American」と呼ぶことで、気付かないうちの差別や不必要な摩擦・争いを避けようというのが、ポリティカル・コレクトネスの考え方だ。

そのため、「African American」という呼称がアフリカにアイデンティティを持たない黒人の存在を無視しているという意見が主流になれば、現在の呼称も見直しを迫られることだろう。

 

思考停止する人が現れる可能性

乱暴に言うならば、ポリティカル・コレクトネスは「この単語を使うこと(=コスト)が、無用な摩擦を避ける(=ベネフィット)ならば、使用しておこう」という当座的な考え方にすぎない。

この意味で、ポリティカル・コレクトネスはあくまで功利的な視点から成り立っており、リベラリズムの専売特許かというと微妙なところである。

花王の出来事で言うならば、「#BeWHITE」というキャッチフレーズが摩擦を生む可能性があるならば事前に取り下げておこうという姿勢は、まさにポリティカル・コレクトネスの考え方に合致する。

プロジェクト自体が炎上によって中止されるリスクを事前に回避し、一時休止によって文言を変えることで、その予算が無駄になる危険性を避けたという意味では、企業にとって次善的な対応であるとも言える。

しかし既に見てきたとおり、ポリティカル・コレクトネスは差別の内実や構造に目を向けず、功利的な視点から暫定的・限定的な措置を下すだけのものに過ぎない。その意味では、人々が差別について理解し、議論を深める契機を奪う可能性すら持っている。

そのため、ポリティカル・コレクトネスに敏感になった企業が、炎上の可能性がある単語を片っ端から避けていく状況は、一概に好ましいとは言えない。

もちろん差別的な言説・振る舞いは許されるものではないし、企業にとってもわざわざ議論を呼ぶような用語を使うことでリスクをとる必要はない。

ただ、炎上リスクがあるからという理由で社会全体が敏感な話題を避ける傾向が強まれば、問題の内実が十分に明らかにされることなく放置される懸念もある。

このことは炎上した企業がしばしば使用する 「一部のみなさまに不快な思いをさせて申し訳ございません」という謝罪文言からも見て取れる。問題の所在を明らかにせず、不快にしたという曖昧な事象に対して謝罪する姿勢は、差別の実態・構造を理解しようという意識からは程遠い。

このように見てみると、いわゆるポリコレ棒といった揶揄に見られるように、ポリティカル・コレクトネスを振りかざす人々のせいで「言葉狩り」が進むことがポリティカル・コレクトネスの問題点ではないことがわかる。

ポリティカル・コレクトネスは差別を解消するのではなく、むしろその乱用によって、差別的な言説・思考に蓋をする可能性を持っており、構造的な理解を停滞させる危険性がある。

「言葉狩り」に問題があるとすれば、それがもたらす息苦しさではなく、その差別の内実・構造に目を向けないまま表面的的な言説のみを批判して、差別に向き合ったと思考停止する人が現れる可能性である。

例えばハフィントンポスト前編集長の高橋浩祐は「ブラック企業は、黒は汚れてきたないものという価値判断を持ち込んでおり、人種差別用語である」と述べているが、これは色自体のイメージとブラックを混同した論調と言える。

花王の出来事は、こうした事例とは線引きする必要があるものの、ポリティカル・コレクトネスの誤用が不毛な議論を生み出すリスクは存在している。