〔PHOTO〕花王「#BeWHITE」プロジェクト

「ポリティカル・コレクトネス」は言葉狩り? 花王の事例が問う論点

差別的かどうかを議論するよりも…

花王のプロジェクトと「言葉狩り」

13日、花王は働き方改革や家事分担について提唱する「#BeWHITE」プロジェクトを休止、関連サイトの閉鎖を発表した。12日にプロジェクトを公開してから、わずか1日の出来事だった。

ネットには「#BeWHITE」に対して批判的な声よりも、差別や炎上に対して過度に敏感とも取れる姿勢を疑問視する声が広がっている。中には、ポリティカル・コレクトネスが「言葉狩り」であることの証左だという声も見かけられた。

本件の特質性は、炎上の結果としてキャンペーンが中止に至ったわけではない点だ。6月13日の共同通信によれば、「『ホワイト』は肌の色を連想させ、肯定する表現が人種差別に当たるとの指摘が社内からあった」とされており、社内の自主判断によってキャンペーンを取り下げたことがわかる。

ただし「White」という単語自体ではなく、「Be White」という言い回しが花王社内で問題視された点には注意する必要がある。

「Whiteは白人を連想させる」という単純な話ではなく、「Be White」という言い回しが白人至上主義的なニュアンスをもたらしかねないという理解は、ある程度の妥当性を持っているだろう。

 

しかしいずれにしても、消費者から問題視されたわけではないキャンペーンを公開後すぐに取り下げたことは、異例な対応であると言える。

本件を炎上に敏感になった企業が過度な対応をとった結果だと捉える人も、人権や差別への意識が企業において高まった結果だと捉える人もいるだろう。

後者の立場であれば同社の対応は称賛されるべきだが、一方で前者の認識を持つ人も少なくないはずだ。

果たして花王の対応は過度に「言葉狩り」が進む息苦しい社会を象徴しているのだろうか? それはポリティカル・コレクトネスが蔓延した結果なのだろうか?

本論は、こうした疑問を大きく2つの視点から見ていく。

1つは、ポリティカル・コレクトネスが絶対的な規範ではなく、さまざまな規範を仲裁するための「規範の調停」というべき暫定的な措置をくだす存在に過ぎず、差別の内実・構造に蓋をするリスクすらあるという点。

もう1つは、60年代以降の左派がポリティカル・コレクトネスのような問題に拘泥してしまった結果として、「より重要な議論」が置き去りにされてしまったという点だ。