地獄から生還した、中世の人たちの証言から「見えてくるもの」

現代とは異なる「臨死体験」の意味
加須屋 誠 プロフィール

「怖いもの見たさ」という感情

各階には、それぞれ独自の責め苦が用意されている。数々の責め苦は、かつて私たちの祖先が心中に思い描いた苦痛と恐怖が、具体的にイメージされたものである。

 

「閻魔王の裁き」(第4章)では、地獄の冥官である閻魔王と対面する。閻魔王の裁きの場においては、明確な証拠の提出が求められ、それを根拠に適切な判決が言い渡される。そこは、今日の裁判所にも似た、公文書をやりとりする堅牢なお役所的な管理機構とみなされる。

「地獄絵を観た人たち」(第5章)では、視点を変えて、かつて地獄絵を目にした古代の人々がそこに一体何を見出したのかを探ってみたい。彼らは現代の私たちと全く違う視座から地獄絵をみつめていたのかも知れない。あるいは意外にも、私たちと同じような感覚で地獄絵を目にしていたかも知れない。

絵を介して地獄を遠望した人たちではなく、実際に地獄に堕ちた人たちの証言を集めてみたのが、「地獄からの生還者たち」(第6章)だ。一旦地獄に堕ちたものの、再び現世に生還した人の話が、中世にはしばしば語られている。今日的な言い方をするならば「臨死体験」と呼べそうなものだが、現代のそれとはやや異なる。

生き返るのは、個人の資質によるのではなく、神仏の霊験によるものと説かれる。言い換えれば、個人ではなく、社会の在り方が死者の蘇生を認めたのだ。神と仏が現実的な存在として信じられていた時代の、死生観が見えてくるだろう。

「地獄の衰退と復興」(第7章)では、近世から近代にかけての地獄観を考える。この時代は、人々の心のなかで現実世界の比重が増して、神仏の存在や死後の世界が徐々に軽んじられるようになった。

しかし、この時代に至ってさえ、地獄を支える「暴力」と「エロス」の欲動は失われることなく、人々の心の奥底に潜んでいた。今もそれは変わらない。

こうした思索を経て、私が拙著『地獄めぐり』で明らかにしたいのは、次のことだ。

地獄とは、どこか遠くに存在する(あるいは荒唐無稽な空想のなかにある)場所ではない。地獄は私たち皆の心のうちにありながら、いつのまにか忘れ去られてしまった、どこか懐かしい、馴染みの場所であるに違いない。

私たちは地獄に心惹かれる。俗に云われるところの「恐いもの見たさ」という感情は、私たちの深遠な心の構造に支えられており、そして、それは遥か古代から現代へとつながる、とても長い歴史に根を張っているのだ。(本稿は『地獄めぐり』「はじめに」を一部改変したものです)

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